第三章 ターゲットをあぶり出せ
的確なる指摘
「アメリカ人は『マネー・ゲーム』、つまり企業買収(M&A)により単にカネを右から左に動かすだけでカネを儲けている。例えば、為替レートは現在一ドル百二十円前後、コンピューターや人工衛星、電話などを使ってカネを動かすだけで巨額な利益が瞬時に手中にできる。・・・・為替ディーラーに私の考えを話すことは、証券会社に対して株価の変動そのものが間違っていると言うようなものだ。....カネというのは投機のためにあるのではないと私は言いたい。カネの基本的な役割は、銀行や証券会社を儲けさせることではなく、生産活動の流れをスムーズにすることだ。アメリカはサービス産業の比重が高まるいわゆる脱工業化社会になりつつあると言われてきた。だが物を生産することを忘れるという、今アメリカで起こっているようなことが起こると、人々は必要とする生活必需品まで自分たちで賄うことができなくなる」(アメリカで話題を呼んだ海賊版より)
驚くべき、かつ極めて示唆に富むこの言葉は、石原慎太郎氏との共著『NOと言える日本』の中でソニーの会長、盛田昭夫氏が語ったものである。それは日米摩擦の原因の一つを的確に指摘している。盛田氏が言っている通り、一九五○年代にアメリカのエリートたちが取り入れた「脱工業化社会」の成立したことが、アメリカの貿易赤字の大きな原因になっている。盛田氏自身の言葉を借りれば、アメリカは資本財を生産しなくなったので活力ある経済を維持できなくなっているのである。
この本はアメリカの政界各層の人たちに一騒動を引き起こしたと言っても言い足りないほどの反響を呼んだ。だが、この『NOと言える日本』という本の出版の詳しい事情を見る前に、脱工業化社会とは何かをまず考えてみよう。
乗せられた米国経済
「脱工業化社会」という政策を推し進める動きは、代表的民間財団のフォード財団や大学の政策立案集団の手で、一九五○年代終わりごろから始まった。この動きに最も関係した人物と言えば、ハーバード大学の社会学者で、後に代表的な新保守主義者になったダニエル・べルである。べルには多数の著書があり、その中でも『イデオロギーの終篤』の中で脱工業化社会の考え方を世に問うた。
一九六七年の六日戦争でイスラエルが勝利を収めた後、べルはシオニズム(ユダヤ民族主義の意、イスラエルの国益を自分の国籍のある国の利益より優先させる)の熱烈な支持者になった。べルは『ザ・ナショナル・インタレスト・アンド・コメンタリー』誌をはじめ様々な雑誌を出している新保守主義者知識人の旗頭の一人であり、この脱工業化社会の到来を宣伝する数多くの人間の一人でもある。脱工業化社会を最初に推進しそれを支持したのは、ニューイングランドの名門の人たちとニューヨークにいる彼らの銀行家の友人たちだった。彼らは脱工業化社会を、開発途上国や第三世界を中心に人口ゼロ成長政策を進める手段にしようと考えた。彼らの真の狙いは、次のような考えに立っている。
日本をはじめとする西側工業国が脱工業化政策を取ったなら、開発途上国にとって工業化をしたり、農業生産を改善したりすることが不可能になり、その結果自給自足もできなくなる。さらに銀行家たちは、脱工業化政策の結果として開発途上国への投資に回せる資金を十分調達できる国が存在しなくなると考えた。アメリカが輸出向けの資本財の生産をもはや行わなくなるので、米国内の産業基盤が縮小するとともに、開発途上国の潜在的市場も手付かずのまま放置されることになる。その一方で、国際通貨基金(IMF)や世界銀行といった国際機関がアメリカの支持により開発途上国に対して新植民地政策を取る。第三世界の天然資源の搾取、安い労働力の確保がアメリカの政策の基礎になる。
もっと基本的なことを言えば、脱工業化社会というのは、産業基盤が鉄鋼、ゴム、工作機械、鉱業といった従来の重工業から、より狭い分野に限定されたハイテク産業へと移行した社会のことである。アメリ力というのは、ブレジンスキー元国家安全保障担当大統領補佐官の言葉を借りるなら、「テクノトロニックソサエティー」になり得る国であるが、ある意味では実際そうなってしまったと言うことができる。
凋落と衰退のアメリ力
つまり一九四六年から今日に至るまでの間に、アメリカはすっかり変容してしまったのである。第二次世界大戦にアメリカが勝利を収めることができたのは、その生産力と労働力のおかげだったが、もはやそれらが経済成長の維持や拡大に大きな役割を果たすということはなくなった。一九四六年においてはアメリカの製造業と、教師や医者も含めたサービス産業の比率は六十五対三十五であった。今日、一九九○年時点ではその比率は完全に逆転してしまっている上に、製造業の比率が下がり続けている。アメリ力はもはや昔のように科学や技術の発達に貢献することはできなくなった。
ある時などは、大企業の一つ、ゼネラル・エレクトリックは宣伝用スローガンに「進歩はわれわれの最も重要な商品」という言葉を掲げていた。科学や技術の進歩を基本的に信じるということが、平均的アメリカ人の文化的推進力であった。それはとりもなおさず、「メイド・イン・アメリカ」の表示の下、世界最高の製品をを作っているのだという誇りであった。だが過去二十年間に、アメリカの社会には科学や技術を罪悪視するプロパガンダが充満し、工業化はガンを生むとか、原子力発電は危険といった人を脅かす手口が往々にして用いられるようになった。米国民を相手にしたこの心理作戦は、アメリカの文化から技術発展による人類の進歩を信じる思想を根絶してしまうことを狙ったものであった。
科学や技術の優れた点を重んじる考えをアメリカ文化から排除してしまうということは、脱工業化政策の極めて重要な特徴の一つである。この中にあって唯一、科学や技術の進歩が引続き許されたのは、産軍複合体のみであった。民間の産業や科学の分野に関するものは、ことごとく「ウォール街のハゲタカ」どもの手に売り飛ばされてしまった。
対日政策の変化
だから「ジャパン・バッシング」計画の背景に日本への人種偏見があると指摘した石原氏は、重要な点を見逃していた。さらに氏が、日本はアメリカの国防産業にとって不可欠な半導体技術のアメリカへの供与を止めることができるなどと、いささか幼稚で知ったかぶりの主張をするのも、重要な点を見逃しているからだと言える。このような声高な応酬による対応は、「ジャパン・バッシング」計画促進に油を注ぐだけである。
アメリカの政策担当者たちの人種偏見が問題でないわけではない。日米間の問題には、人種的要因が確かに存在する。アメリカの歴史を見ると、イギリスの影響が強まるにつれ「人種的なものの考え方」が強調されてくることがわかる。歴史的には二十世紀初めになって、アメリカの政治思想はイギリスの直接的影響下に置かれるようになった。アメリカに重要な変化が起こったのは、親英派のセオドア・ルーズべルト政権の時だった。彼の太平洋地域、特に日本に対する見方はイギリスによって形づくられた。その結果、明治維新時につくられた日米間のパートナーシップとしての関係が変化した。
十九世紀までのアメリカの哲学的政治観はジョン・クィンシー・アダムズの思想に由来するものだった。各々の主権国家はその外交政策の基礎を、各主権国家の実り豊かな未来を目指すべく互いに努め協力するような規律ある関係に置くべきだ、という彼の考え方は、モンロー主義の中に見出すことができる。当然のことながらこのような考え方は、イギリス人の考え方やへンリー・キッシンジャー元国務長官の考え方、それに彼の「バランス・オブ・パワー」なるメッテルニヒ流の政治手腕とは全く正反対のものである。
アブラハム・リンカーン大統領時代を見れば、アメリカが日本に対し現在とは全く異なったアプローチをしていたことがわかる。自らの工業化政策を取ることにより、南北戦争で北軍を勝利に導いたリンカーン大統領の経済顧問の一人が、一八七一年から一八七七年にかけて明治天皇の顧問を務めた。彼の名前はエラスムス.ぺシャィン・スミスという。スミスは「アメリカ政治経剤学説」として知られる経済思想の流れに属する。その説は低利の長期資金をアメリカ政府が調達し、それによって政府の手で運河・水路・鉄道、道路といったものを建設して、国内の社会基盤を整備することを強調する。
この「アメリカ政治経済学説」と対照的なのが、アダム・スミスの自由市場経済学のイギリス学派であった。今日、この学説を支持するのはアングロ・アメリカ系の銀行界の首脳たち、とりわけ以前「高利貸集団」と称された人たちである。一八五三年のぺリー提督率いる日本遠征航海そのものが、アメリカでロスチャィルドのために高利貸事業をやっていた連中がそそのかしたものであったというのは、一つの歴史の皮肉である。
フランクリン・ピアス政権時代(一八五三‐五七年)、民主党の首脳で、アメリカにおけるロスチャイルドの正式の代理人でもあったオーガスト・べルモントが、アへン取引の拡大を通じ極東地域でのアメリカによる最初の拡張主義政策をとろうとした。ぺリーの任務は、アへン取引の拡大を図るために「日本の開放」を果たすことだった。べルモントとぺリーの日本への遠征との関係は極めて単純なものである。ぺリーはオーガスト・べルモントの娘と結婚しており、その娘を通して作戦の実行を強制されたのである。
盛田昭夫氏批判の理由
ここに述べたちょっとした歴史的エピソードは、アメリカがこのような政策をとった理由を理解する鍵になる。金融における影響力や支配力を持ったことで、アメリカは国家としてこのような政策をとるようになり、その政策がもたらした特異な政治権力を手にするようになった。それは石原氏が言うように日本が「黄色人種の危険な存在」の代表だからというわけではない。アメリカが日本を攻撃するのは、それがアメリカの金融および経済政策の本質そのものだからであって、それが対立の原因なのである。
だからといって、盛田氏と石原氏が問題の本質をわかっていないと言っているのではない。盛田氏は技術と企業の発展の間に決定的関係があることを理解している。この点について、彼は次のような言葉ではっきりと述べている。
「アメリカは物を造ることを止めてしまった。だからといって、それがアメリカには技術がないということを意味しているのではない。この技術と企業活動とがしっかりと結び付かない原因は、第二、第三のタイプの創造性が欠けているからである。つまり新しい技術でつくられた製品を企業化するところの創造性である。これがアメリカの大きな問題だと思う。そして今のところ、この分野がたまたま日本の強味になっている」(前出海賊版より)
だが盛田氏はアメリカのどこが間違っているかを洞察力鋭く書いているにもかかわらず、なぜCBSテレビの「シックスティ・ミニッツ」なるニュース番組で自分が叩かれる結果になったかを理解してはいない。同番組の一部を構成する二十分番組ではダイアン・ソーヤーが世界中に盛田氏を追いかけてインタビューをしており、それを通じて日本の政策を攻撃している。これが起こったのが十年前だったにもかかわらず、彼は自著『NOと言える日本』の中で詳細を一つ一つ鮮明に思い起こしている。彼が触れなかったこと、おそらく知らなかったと思われることは、CBSのオーナーがローレンス・ティッシュだということだ。
投機的資金調達の演出者たち
ティッシュはADLの最高幹部の一人で、金融界やマスコミ界に大きな影響力を持っている。長年にわたって彼はウォール街の中でもとび抜けた大富豪の一人で、一大企業集団のローズ・コーポレーションを金融面で操る大立者である。同社は大劇場やホテル・チェーン、タバコ、保険といった事業を行っている。パーク・アヴェニュー六一番街にある自分のホテル、リージェンシーで開かれる悪名高いユダヤ人の権力者たちが集まる朝食会で、ティッシュはCBSの創始者でもある親友のウィリァム・パーレーと定期的に会っている。
元イスラエル国防相のイツハク・ラビンが、ティッシュと金融界の人物フェリックス・ロハティンの招きで一九九○年七月に訪米したのは決して偶然ではない。それはシャミルが再び政権を取ったことに伴い、ラビンとしてはどのような支援をアメリカ政府から受けられるかを話し合うためのものであった。
ロハティンはオーストリア生まれのユダヤ人投資銀行家で、ニューヨーク市当局の金融代理人である。この人間関係を見れぱ、国際的な政治・金融がどのように演出されているか、マスコミが前出の章で述べたようなある種の工作にどのように利用されているかがわかる。さらにイスラエルに関する金融や経済政策の大部分はティッシュ、ロハティン、マックス・フィッシャーをはじめとする「憶万長者クラブ」が取り仕切っているのである。
したがって、盛田氏や石原氏がアメリカにかつて起こったこと、そして今起こっていることを政治的な面からわかっているとしても、完全に理解しているとは言えない。脱工業化社会ヘの移行、その結果レーガン政権時代に起こったLBOやジャンク・ボンドといった投機的な手段による資金調達ブームは、ロンドン、ニューヨークの一群の人々が演出したものだという観点からこれを見ていかなけれぱならない。これはアメリカ的なハメはずしなどといったものではない。したがって彼らが『NOと言える日本』で、ある特定の人物、例えばクライスラーの会長リー・アイアコッカといったような人物を攻撃しているのは見当違いであるように思われる。
投機ブームの仕掛人
投機ブームに火を付け、アメリカ産業の衰退を招いたのは誰かをアメリカの中枢にいる人たちはよく知っている。一九八○年代の投機ブームは、当時のFRB議長ポール・ボルカーの助言によりカーター政権がとった規制緩和策が引き金になって起こった。そしてレーガン時代にはそれが劇的な高まりを見せた。
この投機ブームに大きな役割を果たしたのがクラヴイス・コールバーグ・アンド・ロバーツ社(KKR)に率いられたウォール街の企業乗取り屋たちだった。投機的な資金調達の手段としては一番重要なLBOのパイオニアがKKRである。
KKRはべア・スターンズ社出身の二人の人物によって一九七六年に設立された。べア・スターンズ社の経営者は、アラン・グリーンバーグ。ローレンス・ティッシュの古くからの友人で、彼が主宰するかの権力者たちが集まる朝食会のパートナーでもある。アメリカの不動産王の一人で、サザビーズ仕のオーナーでもあるアルフレッド・トーブマンも、ティッシュやグリーンバーグと親密な間柄にある。KKRや、その他様々な「企業乗取り屋」たちの間には、このような複雑な関係が存在する。
KKRのジャンク・ボンドを使ったLBO案件の法律問題を担当しているのがスカデン・アープス法律事務所で、その事務所がユダヤ・ロビーの代表的存在であるのも別段不思議ではない。スカデン・アープスの上席パートナーのケネス・ビアルキンは、組織犯罪とコネがあることが知られているし、大がかりな国際投資にも加わっており、KKRの手がけるLBO関係の人々の中でも中心的な人物である。ビアルキンは、各種有力ユダヤ人組織のトップからなる委員長協議会の元議長で、ADLの幹部の一人である。
だから本当のところ、日米間の緊張の第一の原因は貿易問題などではなく、アメリカの金融政策や経済政策を決定し操作してきたロンドンとニューヨークからの政治的圧力に在るのである。
途上国偵務返済問題
銀行制度の規制緩和がきっかけで火が付いたアメリカの投機熱の結果、一九八二年にアメリカは危機的状態に陥った。
一九八二年八月末、世界の銀行界はメキシコ政府の一連の動きに仰天した。当時、メキシコ政府は連銀のポール・ボルカー議長や、チェース・マンハッタン、シティバンク、バンク・オブ・アメリカといった有力債権銀行の代表者たちに会うために、高官をワシントンで開かれた秘密の会合に派遣した。そしてこのような人たちを前に、現行の金利では債務返済は続行できないと、八百憶ドルの負債に対する事実上のモラトリアムを宣言した。
メキシコのシルヴァ・へルツォーク外相は、世界が金融問題に陥っており、ブラジル、フィリピン、アルゼンチン、ナイジェリアといった開発途上債務国も利払い不能の状態にあると述べた。これにより利払い危機の発生は避け難くなり、危機対処に当たっているロンドンやニューヨークの銀行としても対応に迫られることになった。そこで手持ちになった途上国の債券の名目価値を下支えするために、英米の金融家たちは銀行システムの一層の規制緩和を進め、IMFを通じて債務国の経済情勢をさらに引き締めるべく、債務国に厳しい条件を適用することにした。
アメリカ側からは、二つのいわゆる負債軽減措置が導入されたが、これは共に金融崩壊を回避するための「危機管理」を目的にしたものだった。その一つは、べーカー・プラン。もう一つはブレイディ・プランである。両案とも金融面、経済面であまり大きな困難を伴わずに表向き負債総額を減らすことを狙ったものだ。しかし七年以上も経った一九九○年に、この債務対策は惨めな失敗に終った。結局両案とも、銀行の救済を狙うなかなかよく考えたインチキのようなものだった。途上国向け債権の多くを償却したのは日本、ドイツ、スイスの銀行だけであった。償却総額は負債残高全体の七○%前後になる。その結果、英米の銀行は第三世界の危機の解決からは手を引き、先進工業国を対象とする自らの市場拡大に向かい出した。新規市場の開拓の代わりに、既存の市場で日本やその他の国々の銀行と競争する方向を英米は選択したのである。さらに「ドル政策」の結果、一九八○年代には通貨が大きく変動し、この変動に目をつけた投機が盛んに行われた。新規の資本財の開発に民間資本を長期投資するなどといったことは、事実上不可能になってしまった。一九八八年の一括通商法や日米構造協議を持ち出してワシントンが貿易戦争に動き出したのは、このような状況下においてであった。またロンドンとニューヨークの金融枢軸連合が投機ゲームに火を付けたのも同じ状況の下においてのことであった。
日本を標的とするロスチャイルド
このような状況の中で、ロンドンに本拠を置くロスチャイルドは、アメリカを債権国から債務国にひっくり返すために持てる政治力、金融力を注ぎ込んだ。一九八二年から八六年の間にこの目的を達成した後、ロスチャイルドは今度は最大の債権国日本を支配下に置こうとした。彼らが注力したのはまず、日本の資金が流れる先をアメリカ市場に限定することだった。その次は、日本の技術が開発途上国、とりわけラテン・アメリカに移転するのを防ぐことだった。最後に、日本が貿易で手に入れた黒字を日本から取り上げることだった。そしてこの最後の点が最も重要な事柄だった。
G7、IMF、世界銀行、アジア開発銀行、さらには日米構造協議などといったあらゆる政治的、金融的メカニズムを利用して、アメリ力政府はこれら銀行になり代わり日本の投資資金の流れを操作しようとしている。シオニスト・ロビー、ジャパン・バッシングに励む議会、それに農務長官、運輸長官、商務長官、財務長官といったブッシュ政権内の閣僚たちは、大がかりな硬軟取り混ぜた交渉術を駆使してきた。彼らは貿易黒字の形で日本が手にした資金をわがものにするためには、どのような罠を用いることをも躊躇しないであろう。
いわゆる公平な取引慣行の要求とか、市場開放の要求といったことも、同じ策略の一環にすぎない。
石原慎太郎氏の訪米
日本の金融制度に深く入り込み、それを支配する方策を探るために、カール・レヴィン上院議員と彼の弟であるサンダー・レヴィント院議員のの後ろ楯となっている人々が、ワンントンやアメリカ各地、特にアメリカの伝統的工業地帯であるミシガン州やイリノイ州で講演させるために石原氏を招待した。
レヴィン兄弟は、ともにミシガン州選出の議員である。二人は議会においては銀行、貿易、通商といった重要な委員会に属している。彼らはまた、かねてから日本の通商政策を人一倍激しく攻撃してきた。
にもかかわらず、どういうわけでレヴィン兄弟がかねてからの敵、『NOと言える日本』の著者である石原氏を招いたのか。その問いに対する答えは、これがCIA長官ウィリアム・ウェブスターの協力のもとに発動された昔からよく使われるあぶり出し工作だったという事実の中にある。
あぶり出し工作に関しては前章でも触れているが、アメリカにおける石原氏の敵は、この石原氏という人物がどのようなやり方をするのか、彼が書籍を出版したことによって米国民に実際どのようなインパクトがもたらされたかを自らの目でつぶさに見たかったのである。
ここで述べておきたいのは、論争が大きくなったそもそもの原因が、『NOと言える日本』という書物を英語に翻訳したことにあったという事実である。国防省がこの本を手に入れ、訳書を出したところ、その翻訳に対して政府内の他の部署から、原書の中の手厳しい批判の一部について語調を和らげる手心が加えられているとの指摘があった。世間の人々がその本の内容についてほとんど知らない間に、水面下での大がかりな戦いが始まっていた。これも彼らが石原氏をアメリカに招いた理由の一つで、石原氏が通訳者を通してであっても、アメリカの大衆に向かってどのように自説を述べるのかを見たいということもあった。
手強い人物、橋本蔵相
レヴィン兄弟に話を戻そう。二人はあぶり出し工作にかかわっているばかりか、ADLによる議会工作にもなくてはならない存在である。レヴィン兄弟はミシガンでは有名な弁護士一族の出である。二人は弁護士としては三代目に当たり、彼らの母親はミシガンの極めて富裕なユダヤ人一族の出身である。政治的に彼らとつながっているのは、ホワイ卜・ハウスに近く、ユナィテッド・ブランズ・コーポレーションとマラソン・オイルのオーナーであるマックス・フィッシャー(見せかけの共和党員)、不動産の投機家でADLへの資金提供者の創始者でもあるアルフレッド・トーブマン、クライスラー会長のリー・アイアコッカ、反日の全米自動車労組委員長のオーエン・ビーバーといった人たちである。
このグループの中から、ジャパン・バッシャー(日本叩き論者)の中心人物の何人かが出ている。彼らは石原氏に対し、好奇心と恐れが相半ばした気持ちを抱いている。というのも石原氏は日本の現大蔵大臣、橋本龍太郎氏と関係が深いからだ。アメリカの情報関係者の間では、橋本氏は危険な「日本のナショナリスト」の一人で、日本の歴代大蔵大臣の中で最も扱いにくい人物だとみなされている。レヴィン上院議員の事務所の話によると、石原氏を招いた理由の一っは、橋本氏が日本の「国際的責任」を遂行するつもりがあるのかどうかを確認することにあったという。つまり日本が「IMFやそれに類した機関が決定した国際金融ルールに従って行動」し続けるかどうかという点が問題だったのである。
日本上陸を図るADL
その一方で一九九○年春の石原氏の訪米期間中、あぶり出し工作のための情報はことごとく集められ、CIAとADLの手に渡された。CIAとADLの関係については、次章でその詳細を見ていくことにする。ここでは石原氏の訪米は、日本の新聞が大いに持ち上げて大成功と書いたのとは裏腹に、実際はアメリカにおける日本のイメージ低下を図るための次なる心理戦争の準備に利用されたと言うだけで十分だろう。加えて、その旅はADLに対し、日本事務所開設のための資金集めをしなけれぱいけないと思わせるに充分な一連のインパクトを残した。
彼の旅から二ヵ月もたたないうちに、ユダヤ系投資銀行グループの代弁者として代表的な存在であるニューヨーク・タイムズ』紙が、七月十二日の一面で米国企業による日本攻撃の一大キャンぺーンを行う方針であると報じた。そのポイントは日本人による米国企業の買収であり、いかに日本がアメリカを買いあさっているかという点にあった。石原氏の発言から日本人の見方というものをより深く理解した上で、ADLやその手先のマスコミ、そしてその仲間の広告媒体は、次の作戦を開始したのである。
第三章はここまで
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