ユダヤの告白[サイト管理人:前書き] 訳者前書き@ 本編 A B C D E F G H I J K L M N INDEX

第九章 コインの両面、人権と組織犯罪

 ギャングから慈善家への変身

 組織犯罪に関する研究者としてアメリカにおける第一人者であるハンク・メシックによると、全米犯罪シンジケート(NCS)委員会会長であったロシア生まれのユダヤ人ギャング、メイヤー・ランスキーは二つの夢を持っていたという。

 一つは、大犯罪を行っても人目につかぬようまともな体裁を装うことにより、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、北米の犯罪地下シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団につくり変えることであった。

 二番目は、イスラエルを「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国の世界本部とすることであった。ランスキー自身はどちらの夢の実現も見ることなく他界した。しかしその死後十年が経過した今、彼の二つの夢はともに現実のものとなった。彼の夢を現実化した大きな要素は、ADLの存在であった。

 これまでにも述べてきた通り、二十世紀への世紀の変わり目頃に創設された当初から、ADLは組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関であった。警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中におけるユダヤ・ギャングの役割を解明しようとでもすれば、ADLはこれを反ユダヤ主義者として攻撃した。

 メイヤー・ランスキーが、アメリカ最大の犯罪組織である全米犯罪シンジケートを五十年間も運営していたという事実が知られていなかったことは、それ自体、ADLが防衛活動をいかにうまくやりおおしていたかを示す明白な証拠の一つである。


 ADLの資金源

 ランスキーは、その勢いが最も強かった頃、悪名高いシシリー・マフィアを完全に支配していた。このシシリー・マフィアも全米犯罪シンジケートに加わっていた組織の一つであった。

 全米犯罪シンジケートは、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール推進機関で全米の公共事業の監督に当たった全米復興庁(NRA)を範にとり、「合法的」組織犯罪を目指すランスキーの夢に沿ってつくられた組織である。同シンジケートの地方組織の構成方法は全米復興庁のやり方の模倣であり、意志決定は等しくそれぞれの地方組織を代表する全米委員会で下された。

 全米委員会はニューヨーク、ニューオーリンズ、シカゴのような伝統的にギャングの中心地であった主要都市だけではなく、全米のすべての地域社会に組織犯罪を拡めることを目的として組織されていた。また同委員会は、犯罪シンジケートへの法規制強化と国民一般の反感をもたらす可能性があるギャングの抗争を未然に防ぐ自警団組織をつくる狙いをも持っていた。禁酒法時代のシカゴにおける「カポネ戦争」は犯罪シンジケートを著しく弱体化させたが、ランスキーはこのような些細な抗争で自分の大計画が潰れることのないよう心掛けた。

 メイヤー・ランスキーは全米犯罪シンジケート委員会の押しも押されもせぬ会長であった。

 ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同じ方法で組織を再構成したばかりではなく、その統括母体を全米委員会と呼ぶようにしたのは決して偶然ではない。

 ユダヤ・ギャングに援助を与えたのと引き換えに、ADLは組織犯罪の隠れ蓑に付随する金銭上の利益を獲得した。ADLの資金調達活動やこれと協力関係にあるユダヤ慈善事業に対しては、メイヤー・ランスキー委員会会長のシンジケート内の仲間たちによる多額の寄付が行われた。ランスキーが自分自身の名でADLに寄付を行ったという証拠はないが、ジョー・リンゼイ、ヴィクター・ポズナー、メシュラム・リクリス、エドモンド・サフラ、モー・ダリッツ、サム・ミラーそしてモーリス・シャンカーのような終生シンジケートに関係していた人たちが、公にADLに対し寄付を行った。


 ギャングの脱皮と変身

 一九八五年、ADLはその月報の第一面で、シンジケートの大物モー・ダリッツに年間慈善家賞を授与したと誇らしげに伝えた。禁酒法時代にアメリカの郵便局に貼ってあったFBIの指名手配ポスターに使われていたダリッツの写真が、クリーブランドとラスベガスのギャングに対する謝辞に添えられて機関紙の第一面を飾ったのである。

 ダリッツはメイヤー・ランスキーの古くからの犯罪シンジケートの盟友であった。彼はクリーブランドにおける地下組織の四人の頭目中の一人で、他の三人はユダヤ・ギャングのモーリス・クラインマン、サム・タッカーおよびルイス・ロスコップであった。禁酒法時代の後、ダリッツはクリーブランドの押しも押されもせぬ頭目となり、マイアミの賭博場にまでその犯罪の手を拡げた。そのようなナイト・スポットの一つ、フローリックス・クラブはダリッツとランスキー自身との共有物であった。ランスキーがキューバに彼として最初の賭博、麻薬と資金洗浄のオフショア・ヘブンを開いたとき、ダリッツは特別待遇のパートナーとして迎えられた。ランスキーが古くからのシンジケートのパートナーの一人であるベンジャミン・シーゲルをラスベガスから追い出す決意を固めたとき、ダリッツはカジノとそれに関連するアングラ・ビジネスの最大の分け前にあずかった。ダリッツはランスキーの生涯を通じての親密な協力者であり、そのマイアミ・ビーチのアパートを頻繁に訪問している。

 一九六三年、ADLがライバルの米国ユダヤ委員会と二十五年間共同で行っていた資金集めを中止するに際し、その全米会長に有名なハリウッドのプロデューサー、ドール・シャリーを指名した結果、その後の資金集めに関する心配はなくなった。ユダヤ・シンジケートに清潔なイメージを与えようとするメイヤー・ランスキーの運動は、この時点でADLが資金集めのためにシャリーの名を使っても問題がないところまで前進していたのであった。


 シンジケートの暗殺部隊「殺人会社」

 シャリーはハリウッドにおけるランスキーの仲間中もう一人の最高幹部、アブナー・ツビルマンの生涯を通じての友人であり、また子分としても知られていた。ツビルマンはニュージャージー州アトランティック・シティのボスであり、全米犯罪シンジケートの設立時からの一員でハリウッドに多額の投資をしていた。彼はまた、ランスキーとシーゲルが私的に運営していた全米犯罪シンジケートの暗殺部隊である殺人会社の当初からの構成員でもあった。

 禁酒法時代の間ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。ビッグ・セブンとはランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密輸入した密売酒の配給を取り仕切っていた。この酒はサム・ブロンフマン一味がカナダで製造したものであった。ニュージャージーでのライバルであるアービング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フリーゲンハイマー(別名ダッチ・シュルツ)を排除した後、ツビルマンは同州のシンジケートすべてのいかがわしい商売を一手に引受けることになった。そしてついにはラスベガスの賭博カジノ、ハリウッドの映画スタジオにまで手を拡げるに至ったのである。

 ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にランスキーがひっかかる恐れが生じたとき、シンジケートの全米委員会はこのニュージャージーのボスの排除を決定した。一九五九年二月二十七日、彼はニュージャージー州ウエスト・オレンジにある部屋数が二十室にも上る自分の豪邸の地下で死んでいるのが発見された。地元警察は彼の死を「自殺」と考えたが、実際は他ならぬ彼自身がその設立に手を貸した殺人会社によって殺されたということは広く知られている。


 犯罪人とADLのドッキング

 その四年後にADLの全米会長になったドール・シャリーは、彼の葬式に参列していたと広く報道された。もっともシャリー自身はこれを否定した。

 FBIはシャリーが真実を語っているとは思っていなかった。FBIニューアーク現地事務所が作成した一九六一年八月二日付のぶ厚いシャリーの身辺調書中に、シャリーとツビルマン両者について次のような興味ある報告が載っている。「一九五九年三月四日付の新聞記事には、ドール・シャリーは、彼がアブナー・ツビルマンの葬式に参列したという報道を否定しこれを訂正したとしている。シャリーはこの記事の中で、自分はツビルマンの親しい友人ではなかったと言い、また自分がアマチュア劇の指導をしていたニューアークのユダヤ青少年協会で三十年前に会って以来、彼とは一度も会ったことはないと語った」

 組織犯罪の専門研究家によると、ドール・シャリーは、ツビルマンの後援を受けてハリウッドでの仕事を始めたという。

 FBIの報告は続く。「一九五九年二月二十六日、ニュージャージー州ウエスト・オレンジ警察は、アブナー・ツビルマンが、この日ニュージャージー州ウエスト・オレンジ、ビバリー・ロード五〇番地の自宅の地下室で首を吊って自殺したと報告した。」「一九五九年二月二十八日付のニューヨークの日刊新聞『ニューヨーク・ワールド・テレグラフ』紙の記事は『アブナー・ツビルマンは陰で巨大な権力を行使する完全な闇の大立者だった。彼ほど長期にわたって合法的に闇商売で成功し、いかがわしい商売によって赤貧から財をなし、そして社会的地位を得た人物は他にはいなかった。禁酒法時代に五千万ドルを稼ぎ出す密売組織を持っていたツビルマンは着々と事業を拡張し、後年にはウエスト・オレンジの二十室もある自分の大邸宅で豪勢な生活を送った。しかしその一方で彼は、今なおいかがわしい商売をしていると自分を非難する人たちを訴えては、騒ぎを起こしていた』と伝えている」「しかしケハウファーの徹底的犯罪調査の結果、ツビルマンを包む霧は幾分取り払われた。

ツビルマンは調査員が事情聴取をしようとしたとき姿を消し、委員会がやっとのことで彼に召喚状を受理させたときには、自己を有罪に導く可能性がある発現を四十一回も拒否しなければならなかった...彼は早くからいかがわしい商売を数多く手がけ、禁酒法時代にはニュージャージーの酒の密輸入船団を取り仕切る頭目の一人となった。...彼は合法的企業に多額の資金を投じ始め...そしてこれらの合法を装った見せかけの企業は、ケハウファー調査によって初めて明るみに出され...彼は不正手段で得た多額の資金を、ニュージャージー州全域を牛耳るために注ぎ込んだ...一九五二年には彼は所得税脱税の罪で裁判にかけられたが、無罪となった。しかし今月、FBIは一人の陪審員が買収されていたとしてこれを告発し、逮捕した」

 ドール・シャリーは一九六三年から一九六九までADL全米会長の地位にあったが、彼がその地位に任命されたことは象徴的な出来事だった。この頃ユダヤ・シンジケートの存在は公になりかかっていたが、ADLにとっては、自分たちとその犯罪組織との長期にわたる深いかかわりを隠す必要はもはやなくなっていた。


 ADL用「洗浄」銀行

 ADLと犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、スターリング・ナショナル銀行に見ることができる。組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はメイヤー・ランスキーに非常に近いシンジケートの仕事仲間フランク・エリクソンにより、一九二九年に設立されたものである。

 エリクソンはランスキーの金銭の出納を任されていた。ユダヤ・ギャングの「ブレーン」だったランスキーの前任者アーノルド・ロススタインが一九二六年十一月に暗殺された後、ランスキーは個人的にシンジケートの全米の競馬呑み屋に関する業務をエリクソンに担当させた。ランスキーの伝記作家ハンク・メシェクによれば、彼はエリクソンに自分が密かに所有していたフロリダの競馬場やネバダのカジノなど、いくつかの主要な事業における金銭の出納を任せていた。

 スターリング・ナショナル銀行はまたニューヨーク、ガーメント・センター(マンハッタンにある婦人用衣服製造、卸売の中心)におけるシンジケートの「債権取立」銀行でもあった。つまり何千もの中小衣服製造業者に対し、原料買付用として高利の短期資金を貸付けていたのである。その貸付金は衣服製造業者の売掛金を担保としていた。それはある程度合法化された高利貸業であった。エリクソンがランスキーと関係があったことから、スターリング・ナショナル銀行はガーメント・センターを実質上完全に支配することになった。

 セオドア・H・シルバートは一九三四年にこの銀行に加わり、一九四五年に頭取になった。スターリング・ナショナル銀行は一九六六年には彼の下で再編され、スタンダード・ファイナンシャル社の完全子会社となった。さらにそのスタンダード・ファイナンシャル社はニューヨーク株式市場に上場されている持株会社スターリング・バンコープの全額出資下に置かれた。そしてシルバートはこれら三つの会社それぞれの会長、取締役、経営最高責任者に就任した。


 スターリング・ナショナル銀行の実態シルバートはまたADLの終身メンバーで、全米委員会および全米執行委員会とともに、その資金集めと広報をも担当した。広報活動にはギャングの一員モー・ダリッツや、ランスキーの手先である人物が多勢加わった。シルバートは現在ADLの名誉副会長である。

 スターリング・ナショナル銀行はADLの銀行である。国税庁が保存している一九七六年にまで溯るADLの財務記録によれば、スターリング・ナショナル銀行とスタンダード・ファイナンシャル社は、唯一の例外を除きADLが出資を行った二つだけの外部組織であった(唯一の例外はADLの全米委員でかつてブナイ・ブリスの国際部長だったフィリップ・クラツニックが率いるアメリカン・バンク・アンド・トラスト社に五千ドルを出資したその一回)。ADLは広報活動用の銀行預金口座をスターリング・ナショナル銀行に設けていた。ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、一九七八年以後同団体はADL財団を含むそのすべての銀行、投資活動を同銀行へ移していた。

 シルバートは全米犯罪シンジケートと銀行との関係を隠すために、スターリング・ナショナル銀行の財務最高責任者に就任したふしがある。にもかかわらず、彼は、銀行を犯罪との結び付きから文壇したと上手に見せかけることができたとは言えない。

 訴えられてボロが出た

 一九八二年時点で、スターリング・ナショナル銀行とその関連持株会社は、詐欺と横領の共同謀議に荷担したとして三件の民事訴訟で訴えられていた。スターリング・ナショナル銀行に向けられた訴訟は、最近のアイヴァン・ボウスキーとマイケル・ミルケンに対して起こされた訴えと同種のものである。その容疑はADLが関係したジャンク・ボンドに絡む詐欺とインサイダー取引に関するものであった。

 一九七九年にダニエル・マイスターはスターリング・ナショナル銀行、スタンダード・ファクターズ、ブルック・アンド・テイラー、リード・アンド・ダンモア、バーナード・スペクターおよびマービン・トーラーマンをニューヨークの南部地区連邦地方裁判所に訴えた。凡例番号は七九CIV三〇四〇であった。マイスターはトーラーマンを、投資家からの詐欺を目的としてスターリン
グ・ナショナル銀行と共謀し、自分の会社ラテン・アメリカン・リゾーシーズに対し横領を働いたと訴えた。その盗みの手口を見れば、同行がどのように不正資金を「洗浄」した上でADLに流していたかがよくわかる。

 トーラーマンは会社の資産八十八万ドルを、彼が所有するニュージャージーのダミー会社宛の銀行発行の信用状に転換した。スターリング・ナショナル銀行はパナマとスイスにある一連のオフショア銀行口座に金銭を振り込んだ。トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行が有する海外での資金洗浄手法を利用することによって、自分自身の会社の借金を踏み倒し現金を持ち逃げした。トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行の債権回収部長ジョーダン・ボッシュを共謀者とする民事訴訟の外、刑事訴訟においても犯罪の事実を認めた。

 スターリング・ナショナル銀行は、それより数年前にも同じような手口で連邦裁判所に民事訴訟で訴えられていた。それはすでに倒産している会社への当市を勧誘して一般大衆から金銭をだまし取るために、他の多くの銀行と共謀して公開会社の倒産を隠したことによるものである。一九七六年にはデービッド・ヘイバーが、インベスターズ・ファンディング社のオーナーであるジェローム・ノーマンおよびファラエル・ダンスカーに対し集団訴訟を起こした。同社は一九四六年に設立され一九七四年に倒産したが、その時点でスターリング・ナショナル銀行はイスラエル・ディスカウント、バークレーズの両行並びにその他の多くの会社と結託して、同社が倒産したことを十分に知りながら同社株の売買を続け、それによって得た利益を秘密口座に隠蔽していた。


 NATO司令官誘拐事件

 スターリング・ナショナルが関与した最大の銀行詐欺スキャンダルは、一九八〇年代初期に国際テロリズムを背景として行われたものである。

 一九八一年一二月、イタリアの赤い旅団のテロリストが、イタリアのNATO軍司令官ジェームズ・ドジェ将軍を誘拐した。この事件に対する初期捜査は、通常の人質救出作戦と比較して思い切ったやり方で進められ、イタリア政府はイタリアとシシリー全土のマフィアの本拠地に対する一斉手入れを開始しただけでなく、 ニューヨークにおけるギャングの金融取引にも捜査の手を伸ばし始めた。

 イタリア政府がこのような救出作戦のやり方をとったのは、こうすれば犯罪シンジケートは捜査の手を緩めるため、ドジェ将軍の解放に関して米伊両国の政府に協力してくるだろうと予想したからだった。というのもこの捜査によりシンジケートは何十億ドルもの損失と被った上に、組織の基盤が危うくなっていたからである。イタリア政府はこの時点ですでに、国内のテロリスト組織が在来の犯罪地下組織網と連携し、麻薬の密輸と誘拐を手助けする見返りとして、ギャングから武器と隠れ家および偽造身分証明書を手に入れていることを割り出していた。

 政府の救出活動に組織犯罪グループを利用するという対テロリズム強硬作戦の結果、イタリア政府はドジェ将軍の解放と赤い旅団の誘拐犯の逮捕に成功した。

 イタリア政府が乗り出す

 ところでこの捜査の過程で、ADLおよびADLと組織犯罪とのつながりに関して深い係わりのある興味深い出来事が起こった。

 一九八二年一月二十九日、イタリア政府はアドルフォ・ドルメッタ、ジョバンニ・ルボリおよびヴィットリオ・コーダを通してニューヨークの南部地区連邦地方裁判所に対し、「法定信託、横領謀議、詐欺および受託者義務違反」に関する民事訴訟を正式に提起した。被告人はスターリング・バンコープ、スタンダード・プルーデンシャル・コーポレーション(以前のファイナンシャル・コーポレーション)およびスターリング・ナショナル・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨーク(スターリング・ナショナル銀行)、原告はイタリア政府が任命したバンカ・プリヴァータ・イタリアーナ社の清算人であった。原告側はイタリア人銀行家ミケーレ・シンドーナが一九七三年から七四年にわたり、バンカ・プリヴァータおよび同じミラノの銀行であるバンカ・ユニオーネの両行の預金口座から二千七百万ドルを盗むのを手助けする国際的資金洗浄行為に、スターリング・ナショナルが荷担したと訴えた。

 南部地区裁判所に残されている民事訴訟記録には次のような記述が見られる。「バンカ・プリヴァータ・イタリアーナは一九七四年九月二十七日付でイタリア財務省から清算命令を下された。同行の当初の清算人ジョルジョ・アンブロソリは一九七九年七月に殺害された。一九八〇年にミラノでシンドーナと他の一人について開始した刑事訴訟手続きの中で、一九八一年七月、ミラノの担当判事はシンドーナに対し、アンブロソリの殺害容疑で逮捕状を出した」

 アンブロソリ暗殺の後、三人の原告がバンカ・プリヴァータの清算人に任命された。一九八二年一月のスターリング・ナショナル銀行に対する訴訟は、シンジケートにドジェ将軍救出に強力させることを狙ったイタリア当局の、マフィアに対する厳重なる取締りの一環であった。シンドーナは一九八一年五月に起こった法王ヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件に加担した犯罪者集団、フリーメーソン普及ロッジに関係していた。

 政権内に巣をつくる

 スターリング・ナショナル銀行は、民事訴訟の中でシンドーナの横領を幇助したとして訴えられた。その内容はスイス、ルクセンブルグ、ユタ州およびデラウェア州にあるダミー会社を使って手の込んだ資金洗浄行為を実施し、シンドーナがバンカ・プリヴァータとバンカ・ユニオーネ両行の預金から二千七百十八万ドルを盗んだというものである。この横領はシンドーナが多額の投資を行っていたニューヨーク州ロング・アイランドにあるフランクリン・ナショナル銀行の破産がきっかけとなった。この銀行の破産による損失を補填するため、シンドーナは自分が支配する他の銀行の預金横領を始めたふしがある。シンドーナ、スターリング・ナショナルとともに訴えられたのは、フランクリン・ナショナルの破産当時におけるシンドーナの仕事上のパートナーで、ニクソン政権の財務長官を務めたデービッド・ケネディであった。

 スターリング・ナショナル銀行は、ニューヨークにある債権回収会社タルコット・ナショナル社の株式購入を仲介することによって、シンドーナが盗んだ金銭を隠すのを助けた。それは両行がアメリカの法律違反の嫌疑により連邦準備委員会の追求から逃れるための手段であった。スターリング・ナショナルはシンドーナにその時二百七十万ドルを「貸付け」たが、その貸付けはシンドーナがタルコットの株を同行に差入れることによって担保され、同行が後日これをデービッド・ケネディに「売却」した際、ケネディが購入代金として充てた資金は、スターリング・ナショナル自体が用意したものだったのである。この手の込んだ細工によってシンドーナは一時的にではあったが、横領の事実を隠蔽した。

 レーガン政権下の「金融手品師」

 シンドーナによるバンカ・プリヴァータの詐欺事件は、メイヤー・ランスキーの組織犯罪の手引書通りに行われた典型的なものであった。スターリング・ナショナルの持っているノウハウからすればこの程度のことは別に驚くにはあたらない。その取締役の中には何人かの金融上の手品の専門家がいたし、そのうち少なくとも二人はレーガン・ブッシュ政権で非常に重要な地位にあっ
た。そしてこの二人はともにADLの主要な後援者でもあった。

 その中の一人であるマクスウェル・ラブは、ADLの中でも有力な地位にあるニューヨーク州支部の副会長であり、またスターリング・ナショナル銀行の取締役で、ロナルド・レーガン大統領の下でイタリア大使を務めた人物である。

 ラブはローマでの外交上の地位にある間、主要なユダヤ・ギャングの弁護士ロイ・マーカス・コーンと緊密な関係にあった。ラブの娘はアメリカ市民ではあったが、イタリアに囲まれた小国サン・マリノの政府財政最高顧問をしていた。サン・マリノはイタリア共産党が支配しており、世界中で最も銀後期生が緩いことでよく知られている。ラブはアイゼンハワー政権時代以来、ADLお抱えの政治家であった。アイゼンハワー政権では彼は閣僚の一人だった。こうした立派な政治的経歴を有しているにもかかわらず、ラブは一九七〇年代に『ニューヨーク・シティ』紙でメイヤー・ランスキーの仕事上のパートナーとして紹介された。ラブとランスキーは共同でインターナショナル・エアポート・ホテルズ社を興した。ランスキーがこのように会社の取締役として名を連ねるのは稀であった。しかしADLの最高幹部と手を組むという大胆な手段を彼が選択したのは別段不思議なことではない。

 不起訴処分であったバーンズ

 スターリング・ナショナル銀行の取締役の中で、ADLとレーガン双方につながっていたもう一人の人物はアーノルド・バーンズであった。一九八五年にバーンズはレーガン大統領により司法副長官に任命されたが、これは彼をアメリカの検察官として上から二番目の地位に就けるものであった。バーンズはラブと同様、組織犯罪と非常に強いつながりを持っていた。彼は自分が経営するバーンズ・アンド・サミット法律事務所を通して、依頼人にオフショアのタックス・シェルター(税金逃れの隠れ蓑)への架空の投資を行わせることによる脱税方法を考案した。タックス・シェルターに入った金銭は、最終的にはイスラエルのハイテク企業に流れるようになっていた。アメリカ議会のシオニスト・ロビーが連邦税法の中に巧みに仕組んだ信じ難い抜け穴によって、イスラ
エルの研究開発関連会社に対する投資は免税扱いとなっていたのである。

 ところが消息筋と連邦政府の調査によると、バーンズ・アンド・サミット法律事務所はイスラエルの会社に資金を回してはいなかった。彼らは投資家のカネをバハマのオフショアの秘密銀行口座に移したにすぎない。にもかかわらず彼らは投資家には何百万ドルもの税控除をさせたわけである。

 このスキャンダルに関係した少なくとも一つの消息筋は、バーンズと共謀し
ていたイスラエルの弁護士の一人がハワード・カッツだったと指摘している。彼はかつてマサチューセッツ州ボストンで活躍していた弁護士で、ジョナサン・ジェイ・ポラードのスパイ事件に深くかかわっていた。カッツはイスラエルのスパイ活動用の秘密口座を管理しており、ポラードに対する報酬もその口座を通じて支払われた。彼は個人的にワシントンにアパートを購入していたが、ポラードはそこでアメリカ政府の極秘文書をイスラエル大使館職員に手渡していた。

 こののっぴきならないすべての証拠が公となったにもかかわらず、アーノルド・バーンズが起訴されることはなかった。バーンズが法廷で自分の依頼人と仕事上のパートナーにとって不利な証言をした結果、彼らは刑務所行きとなったが、バーンズ自身は連邦検察官との秘密取引のおかげで合衆国の司法副長官となった。

 プライベート情報は盗まれている

 司法副長官としての地位を利用して、バーンズはワシントンのコンピューター・ソフト会社インスロー社の乗取りに関係者として大きな役割を演じた。同社は司法省からコンピューターによる判例管理システムの設置および管理に関する十億ドルの契約を受注することになっていた。

 アメリカ連邦裁判所の記録によると、バーンズたちはコンピューター・ソフト契約をのっとる計略の一環として、司法省に対しインスロー社への何百万ドルもの支払いを思いとどまらせることにより、計画的に同社を破産させたという。インスロー社の破産に関する上院調査報告書では、バーンズはインスロー社側の法律事務所に個人的に介入し、司法省を相手取った同社の訴訟を故意に妨害したということになっている。

 証拠によるとバーンズはウォール街の当市会社チャールズ・アレン・アンド・カンパニーのために働いていたようである。ギャングが関係しているアレン社は司法省との契約を巡ってインスロー社と戦ったライバル会社に融資していた。さらにアレン社は、メイヤー・ランスキーが一九六〇年代にカリブ海のバハマ諸島でカジノ賭博と麻薬密売の一大帝国を築き上げたときの主たる融資者でもあった。

 コンピューター業界の専門家は、司法省のコンピューターに携わる会社が、国家機密に係わる情報を含む連邦政府の全犯罪に関する裁判関係のデータ・ベースに対し、リアル・タイムでアクセスしていると認めている。つまり大陪審での証言、連邦政府のために秘密工作に従事しているエージェントの身元、連邦政府によって保護されている証人、そして係争中の起訴手続きといったものがこういう会社ではすぐに分かるわけである。インスロー社に関する事件は今でも連邦裁判所で争われており、また少なくとも議会の調査対象の一つとなっている。


 腐敗弁護士の悪だくみメイヤー・ランスキーによる全米犯罪シンジケート合法化計画の第一の鍵が、腐敗した銀行家の存在であるとするなら、二つ目は腐敗した弁護士の存在だった。ここで再びADLが、主要な役割を果たす人材を供給することになる。

 ランスキーの壮大な計画の中で、ADL側の中心的役割を担っている人物はまさしくケネス・ビアルキンである。ドール・シャリーと同様、ビアルキンはADLとギャングとの密接な結合ぶりを示す象徴であった。ウォール街において最も有力かつ裕福な弁護士の一人、ビアルキンは一九八二年から八六年にわたりADL全米会長であった。一九八四年には彼は有力ユダヤ組織代表者会議の会長にも就任した。また名門のエルサレム財団の理事長でもあった。その財団は長年エルサレム市長をしているテディー・コレック率いるフリーメーソンの集まりであることがはっきりしている。今日、ビアルキンはADLの名誉会長であるとともに、現在のところその主要な資金調達機関であり、スターリング・ナショナル銀行内にその事務所を置くADL財団の理事長でもある。

 数年前に世界最大の法律事務所、スカデン・アープスに移籍するまで、ビアルキンはウォール街にあるウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所の二人の業務執行パートナーの一人であった。ウィルキー・ファーでの在職期間中、彼の事務所はADLの法律問題を多数手がけたが、それらはすべて報酬なしだった。

 マネー・ローンダリング

 ニューヨークの南部地区連邦裁判所の記録によると、弁護士ケネス・ビアルキンは国際的逃亡犯である麻薬密売人ロバート・ヴェスコのブレーンでもあった。

 ロバート・ヴェスコ、ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーとその他何人かのADL最高幹部が行った二億七千万ドルに上るかなり手の込んだインベスターズ・オーバーシーズ・サービス(IOS)横領事件を理解するためには、一九六〇年代にロスチャイルド家の手先バーニー・コーンフェルドが当初つくり上げたIOSの資金洗浄(マネー・ローンダリング)手法を簡単に説明する必要がある。

 ニューヨークでかつてアメリカ社会党を創立したバーニー・コーンフェルドは、ロスチャイルド家のフランスの一族により用意された創業資金を手に、一九六〇年代初期にスイスのジュネーブに現れた。彼は表向きは世界中の多数の中小投資家のために、ミューチュアル・ファンドからなるポートフォリオを運用するためと称して、IOSをはじめ投資信託を組み入れたファンド、ファンド・オブ・ファンズなどからなる複雑な企業ネットワークを直ちにつくり上げた。コーンフェルドの会社はすべて、銀行機密法によって投資家と預金者の身元の秘密が守られるスイスに設立されたため、初めから組織犯罪による収益、特に全米犯罪シンジケートの頭目、メイヤー・ランスキーが手にした収益の隠し場所となっている。

 作家ハンク・メシックはコーンフェルドとIOSと、ランスキーとの関係について次のように語っている。「同時期にバハマでカジノが拡がった結果、もう一つの非常に重大な事態が発生した。ランスキーの大計画の最終段階の仕上げとして、公益法人が賭博の世界に入り込んできた」「背後で重要な役割を演じたのは、約二十億ドルを投資信託の形で保有する多くの会社の親会社である巨大なIOSであった。スイスに本拠地を置き、したがって米国証券取引委員会の規制を受けることがないIOSは世界中で活動した。IOSはカジノを所有する公益法人から自分の匿名の顧客のために株式を買付けたが、その買い手がメイヤー・ランスキーであるのか、ヘンリー・フォード二世であるのか、それはわからなかった」「アルビン・マルニックの一九七〇年の裁判によって、ギャングが支配するナッソーのバンク・オブ・ワールド・コマース(世界商業銀行)とタイバー・ローゼンバームが率いるインターナショナル・クレジット・バンク・オブ・スイツァランド(スイス国際信用銀行)とに関する多くの情報が明るみに出た。文字通り何百万ドルもの金銭がこの二つの銀行間を行き来し、そしてアメリカに再投資された。IOSと国際信用銀行とのつながりについては不明な点が多いが、両者に関係があったことは事実である」


 国際信用銀行の悪用「IOSの設立者であり一九七〇年までその経営に非凡な才を見せた人物バーニー・コーンフェルドは、タイバー・ローゼンバウムの親しい友人であるとともに、そのビジネス上の協力者でもあった。例えばIOSと国際信用銀行は、ジュネーブの英字新聞社に共同で貸付けをし、後にIOSが同社を買収した」「さらに重要なことはコーンフェルドがシルベイン・フ
ェルドマンを使ったことだ。国際信用銀行の職員であったフェルドマンは、一九六七年の『ライフ』誌の中でメイヤー・ランスキーが秘密の情報を伝えるのに使ったスパイだと指摘された。彼はまたマルニックのの親しい友人であるとともに、世界商業銀行の協力者でもあった。IOSがブラジルで問題を抱えたとき、コーンフェルドは自体を収拾するためフェルドマンをブラジルへ派遣し
た。

表向きは慈善団体から派遣されたように見せかけていたが、実際は彼は工作員であった」「国際信用銀行は金銭の流れを手早く処理し、情報の運び屋であるスパイを使う必要性をなくすため、最終的にナッソーに支店事務所を開設した。ナッソーにはIOSの会社が数多く存在したが、国際信用銀行がナッソーに支店を開いたことで、資金をいったん同支店に移して裏金に変え、それ
を再び貸付けあるいは投資に回すということが簡単にできるようになった」「そのようなやり方で行った投資の一つとして表に出たのが、ガルフストリーム公園のま東にある『ランスキーランド』での四千万ドルに上る高層マンション群であった。その本当の所有者は誰にもわからない」「たとえば大企業のリゾーツ・インターナショナル社株がIOSによって買われたが、それがランスキーの意向を受けたものだったという話を聞かされたとき、リゾーツ社側は動揺した。しかし皮肉なことに、そのことを否定しようにも同社はその証拠を得ることができなかった」「国際的な金融機構を利用することによって、ランスキーあるいは他の組織犯罪のメンバーの財産を隠す仕組みが出来上がった。その意図と目的を隠すため、その仕組みが明らかにされることはなかった」

 ヤミ収益隠しのフロント・マン

 この仕組みが見えないということに付随して出てきたメリットは、コーンフェルドのような表面要員(フロント・マン)を排除あるいは交替させるのに、従来からの手段に訴える必要がなくなったことである。その手段とはシンジケートの成立当初から存在し、ランスキー自身が作った殺人会社により完成された粛正方法である。そこで要員を引退させることは、ウォール街の法律事務
所や高い報酬をとる会計士の仕事になった。

 連邦裁判所の記録によると、ケネス・ビアルキンとウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーは、IOSからコーンフェルドを追い出したことになっている。彼の後任者となったのは、オール・アメリカン・エンジニアリングというCIAの隠れ蓑会社(フロント・カンパニー)に一時雇われていたデトロイト生まれのセールスマンであった。同社はデラウエアに本社があるデュポン・ケミカル社の全額出資子会社で、その男の名はロバート・ヴェスコであった。

 裁判所の記録と他の出版物を注意深く調べてみると、ヴェスコはADL工作員グループのために任命された表面要員であったことがわかる。一九七四年のファンド・オブ・ファンズに詐取された投資家たちによる集団訴訟の際のケネス・ビアルキンの証言によれば、ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーはヴェスコがIOSを乗っ取り結果的に横取りする数年前から彼と組んで仕事を
していたということである。

 ユダヤ・ギャングの活用

 一九七一年、ロンドンでウィルキー・ファー法律事務所の弁護士は、メシュラム・リクリスという名の裕福なユダヤ人ギャングにヴェスコを紹介した。リクリスはイスラエル独立戦争の間イギリスに協力し警察へ密告を行っていたことが発覚し、地下組織の一つイルグンから死刑を宣告されたためパレスチナから逃亡した。彼はミネソタ州ミネアポリスに辿り着き、そこで地方の穀物カルテルの一員でADLの最高幹部の一人でもあったバートン・ジョセフに拾われた。ジョセフは一九七七年から八〇年までの間ADLの全米委員会会長であった。

 ジョセフから援助された創業資金によりリクリスは、メイヤー・ランスキーの禁酒法時代の密売組織と全米犯罪シンジケートの傘下にあった酒造会社の中でも中心的な会社であるシェンリーズ・ディスティラリーズ社を買収した。同社はランスキー、ジョニー・トリオおよびジョセフ・リンゼイの長年の友であるルイス・ローゼンスタイルが興した会社だった。

 早くからランスキーのシンジケートの後援者であったトリオは、ローゼンスタイルの義理の兄弟ハーバート・ヘラーが経営するシェンリーズの関連会社ブレンダーガスト・アンド・デイビーズ社の筆頭株主であった。ローゼンスタイルもまた、全米犯罪シンジケートがその社会的地位と評価をどのように手にしたかを示す成功例であった。ローゼンスタイルは単にADLへの大口献金者というだけではなかった。彼はマイアミ大学に対して最も多額の寄付を行った一人であるとともに、彼の長年の友でFBI長官だったJ・エドガー・フーバー財団の設立者でもあった。この財団はシェンリーズ・ディスティラリーズ社の株式を基に設立された。彼がFBIでの長年にわたるフーバーの副官としての職を下りたとき、ルイス・ニコルスがシェンリーズ社の副社長となった。

 この会社はリクリスとその背後にあるADLグループにとっては申し分のない隠れ蓑であった。リクリスはIOSに大量の投資を行った。ヴェスコとロンドンで会談した際、彼は投資信託の一大帝国を支配できるほど大量のIOS株を買い込んだ。

 この巧みなる悪知恵

 コーンフェルドを追い出し、ヴェスコをその後釜に据える企ては、IOSの関連会社の取締役会にウィルキー・ファー法律事務所の少なくとも三人のパートナー―アラン・コンウィル、ジョン・ダリモンテおよびレイモンド・メリット―が名を連ねていたことでうまく運んだ。

 一九七一年にリクリスはIOSにおける自分の支配権をロバート・ヴェスコに委譲した。ヴェスコは直ちにコーンフェルドの同社における取締役の地位を剥奪した。一九七二年初頭のヴェスコによる乗取りの少し後、ウィルキー・ファー法律事務所の弁護士アラン・コンウィルはIOSの子会社であるFOFプロプリエタリー・ファンズの資産の大部分を六千万ドルで売却した。一九七二年八月中にその売却代金はオーバーシーズ・ディヴェロプメント・バンクというルクセンブルグのシェル・カンパニー(株式の公開買付けの対象となるような弱小会社)に不法に移された。このシェル・カンパニーはバンク・オブ・ニューヨークにあったFOFプロプリエタリー・ファンズの銀行口座から詐取された六千万ドルの単なる受け皿としてウィルキー・ファーが設立したものであった。

 その資金はまもなくインターアメリカン社というウィルキー・ファーによって設立されたもう一つのヴェスコの隠れ蓑会社に移された。全く価値のないインターアメリカン社の株式を購入した形をとることにより、この資金はバハマ・フェニックス銀行の中で洗浄された。この銀行は、ウィルキー・ファー法律事務所のジェイ・レヴィの手で、この目的のために設立されたもう一つの会社だった。結局この六千万ドルは、目下逃亡中のヴェスコが辿りついた先と同じコスタリカに到着した。

 それと並行してヴェスコはIOSの資金の中から別に二億一千万ドルを横領した。それらの資金はメイヤー・ランスキーの犯罪組織が長年の間洗浄行為を続けて貯めた収益で、ヴェスコはこれをさらにカリブ海を基地とするオフショアの銀行に移しただけだと広く信じられている。このカリブの銀行組織は、スイスを中心とするIOSおよびその関連会社であるインターナショナル・クレ
ディット・バンク・オブ・タイバー・ローゼンバームに代わるものとして新しくつくられた機関である。IOSから二億一千万ドルが持ち出された正確な経路はわからない。

というのは「投資家」はその資金を取り戻すためにヴェスコ、ビアルキンをはじめとする人々を訴えようとは一切しなかったからである。この事実は、ヴェスコとビアルキンによるIOS横領事件が当時進行中であった北米組織犯罪の再編作業の重要部分であったことを示す有力な状況証拠にすぎない。ランスキーは世界の汚れた金銭の洗浄行為の中心地を、スイス山中の本拠地から新しくカリブ海につくり上げた大規模な賭博とホット・マネーからなる彼の一大帝国へと移動させたのである。

 今やジュネーブ軍縮委員長、カンペルマン

 コスタリカに上陸して後も、このウィルキー・ファーの表面要員はビアルキンと彼の会社を通じて依然活動していた。ヴェスコはランスキーがその何年か前に設立したバハマに本社を置くカジノとリゾートの会社、リゾーツ・インターナショナル社を買収しようとした。ヴェスコの弁護士とリゾーツ側を代理する弁護士との一連の話合いにもかかわらず、この取引は実現しなかった。

 この取引の背後にもADLの人間が絡んでいた。正体を見せないグループを代表してこの交渉にあたったのはウォール街のフライド・フランク・ハリス・シュライバー・アンド・カンペルマン法律事務所であった。同事務所のシニア・パートナーであるカンペルマンは、現在ADLの名誉副会長であり、長年にわたってADLの全米委員として活躍した。彼はリクリスとヴェスコにビジネス・チャンスを与えたバートン・ジョセフと同じ「ミネアポリス・マフィア」の一員であった。

 バハマのパラダイス島にあったリゾーツ・インターナショナル社買収工作にヴェスコが失敗した理由としては、一九七四年七月にニューヨークの南部地区連邦地方裁判所に対し集団訴訟(七四CIV八〇)が提起された結果、後にADLの全米委員会会長となる人物がIOSから六千万ドルを横領するのに使った複雑な手口が露見する恐れが生じた事実を挙げることができる。「ファンド・オブ・ファンズおよびインベスターズ・オーバーシーズ・サービス社の株主対ロバート・ヴェスコ、アラン・コンウェル、バンク・オブ・ニューヨークおよびウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所」訴訟は六年間続いたが、陪審員の最終評決は被告側に不利な結果となり、裁判所はバンク・オブ・ニューヨークとビアルキンの法律事務所であるウィルキー・ファーに対し六千万ドルの支払いを命じた。

 一九八〇年七月三十一日、連邦判事D・J・スチュワートは、バンク・オブ・ニューヨークに対し、横領の被害に遭ったIOSの投資家への総額三千五百六十万ドルの支払いと、 ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーに対し残り二千四百四十万ドルの支払いを命じる判決を下した。この訴訟に関する裁判所の公開資料は二十個の箱に納められている。それらの中にはヴェスコの横
領計画にケネス・ビアルキンとウィルキー・ファーが関与したことを示す大量の通信文書、宣誓証言その他の証拠資料が含まれている。

 ADLの実態を隠し続ける

 ヴェスコの次なる仕事は世界の不法麻薬取引の元締めになることだった。今や米国司法省から追われる身のヴェスコは、金融面における凄腕のならず者というイメージを払拭し、コスタリカに広大な壁を廻らした地所を入手し、島のいいかげんな政治家たちを札束で頬を叩くようにしてことごとく買収している。そして自分自身とその家族仕事仲間をカリブ海のあちこちに運ぶヨットを購入するなどしている。

 ヴェスコは一九七二年のリチャード・ニクソンの再選キャンペーンに違法なほど多額の献金をし、また一九七六年の民主党のジミー・カーターの大統領キャンペーンにも同様に密かに献金を行っている。遠く離れたカリブ海で逃亡生活を続けていたにもかかわらず、彼は新政権に対する影響力を拡大した。そして大統領の弟ビリー・カーターを買収することによって、リビアの独裁者ムアマル・カダフィが購入していたボーイング七四七の引渡しの凍結状態を解除しようとした。ビリーは喜んでヴェスコやカダフィに協力した。一九八〇年のジミー・カーターの再選キャンペーンの直前に「ビリーゲート」事件が新聞紙上を賑わしたとき、実質的にカーターの敗北が決まった。

 こうして次から次へと事件を起こした結果、以前にもましてヴェスコの金融詐欺師としての名は高まった。同時にこうした事件でその悪名が高まれば高まるほど、ビアルキン、ジョセフ、リクリス、カンペルマン等のADLの大物と彼との結び付きはますます人目につかないものになってきた。

 しかしその実、ADLはランスキーの大計画に自分たちも加担している事実を世間の目からそらすために、ヴェスコという人間を表向きに立てていたわけである。この手口はランスキーがその正体を暴かれることがないよう自分を社会の表舞台から遮断していたのとよく似たやり方である。

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