第十一章 テロの黒幕ADL
PLOの幹部暗殺事件
ADLの実情調査部長で、英国情報部において訓練を受けた社会主義者でもあるシオニストのアーウィン・スウォールは、最近起こった少なくとも二件の極めて劇的な政治家暗殺事件に決定的な役割を果たしていたと考えられている。
実情調査部責任者の手になるADLの内部記録の一つによれば、一九八五年四月にPLO穏健派の指導者イッサム・サルタウィがポルトガルのリスボンで暗殺されたとき、スウォールはその目撃者であったという。サルタウィは、リスボンの高級ホテルのロビーを歩いていたところをパレスチナの対立派が送り込んだと思われる刺客に射殺されたのだとされた。サルタウィは、社会主義者インターナショナルの年次会議に出席するためにリスボンへ来ていた。彼は世界の社会主義者たちに向かって、PLOのヤッサー・アラファト議長への支持と、イスラエル軍に占領されている地域に独立国をつくりたいというパレスチナ人の願いに対する支援を切々と訴えたことがあった。
サルタウィが射殺されたとき、アーウィン・スウォールはそのホテルのロビーで座っていた。彼も同じ社会主義者インターナショナルの会議に出席するためリスボンへ来ていた。イスラエル政府に近い複数の情報源によると、ADLおよびイスラエルのモサドの代理人であるスウォールの役割は、社会主義者インターナショナルを常にイスラエル側につけておき、決してアラブ人やパレスチナ人を擁護する側に回らせないようにすることだったという。この彼の任務からみれば、「人権」や「民族自決」の立場から自らの主義主張を雄弁に説く穏健派パレスチナ人の存在は、イスラエルという国を血の海に引きずり込んでやると叫ぶ狂信的テロリストよりも、大きな脅威だった。
サルタウィの死は、PLOのアラファト議長にとっても、また社会主義者の支持を取り付けようとした彼らの狙いにとっても大きな痛手であった。しかしこの事件からほどなくしてヨルダン川西岸やガザ地区で暴動が起こり、近代的装備を誇るイスラエル軍隊が抵抗する武器を持たない若者に立ち向かったとき、世界の世論や社会主義者インターナショナルの支持は目に見えてイスラエルから離れていくことになった。
スウォールがサルタウィの暗殺に関係があったことを示す証拠は何一つ挙がってはいない。だが、その一方でそれから一年もたたないうちに、イスラエルとADLの利益を脅かした社会主義者インターナショナルのもう一人の人物の暗殺事件の隠蔽工作に、スウォールが個人的に関与していたという驚くべき証拠が明らかになった。
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続いてスウェーデン首相、パルメ暗殺
一九八六年二月二十八日、スウェーデンのオロフ・パルメ首相は、夫人や小人数の警護員と一緒に通りを歩いているところを暗殺された。一九六三年の米国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件以来の大規模な捜査にもかかわらず、今日に至るまで犯人は捕まっていない。
パルメの暗殺から何日かたって、アーウィン・スウォールとADLは、世界のマスコミを動員してパルメ殺害の罪を、アメリカの政治家でエコノミストでもあるリンドン・ラルーシュに押し付けようとした。ADLが十年にもわたって憎悪の対象とするラルーシュは、スウェーデンにも支部のあるヨーロッパ労働党と呼ばれる世界的政治運動の代表だった。パルメ暗殺の二、三年前、ラルーシュは、自分の提出した戦略弾道ミサイル防衛計画案がレーガン大統領によって大幅に採用されたことから、ソ連の怒りを買ったことがあった。彼の提案した計画は、戦略防衛構想(SDI)、別名「スター・ウォーズ構想」の名で広く知られるようになった。レーガン大統領がSDI計画を発表した一九八三年三月二十三日から何週間もたたないうちに、ソ連政府の出版物はADLのパンフレットや記者発表の内容そのままの誹謗中傷の文句を並べ立てて、ラルーシュを好戦主義者だと攻撃を始めた。
ソ連政府上層部の広報担当者たちは、ラルーシュがパルメ殺害の背後にいたとのADLの主張を支持した。その中にはソ連米国カナダ研究所長で科学アカデミー会員のゲオルギ・アルバトフや、当時のスウェーデン駐在ソ連大使で、KGBにあって長年の間専ら裏面での宣伝工作に従事してきたボリス・パンキン中将等もその中にいた。
今になってみれば、パルメ暗殺の背後にラルーシュやヨーロッパ労働党が関係していたと攻撃したスウォールやソ連高官は間違いなく、その主張が全くのでたらめで言いがかりであることを知りながらこうした行動をとっていた。パルメ殺害から三年の後、ストックホルムの主要日刊紙スヴェンスカ・ダグブラデット紙の中で、スウェーデン情報部の上級諜報部員は、スウェーデンにいた少なくとも一人のKGBスパイがパルメ暗殺の数時間前に、同国の社会主義の指導者が殺害されることを予知していたという事実を、確たる証拠を揃えて明らかにした。スウェーデン国家警察SAPOの中の秘密情報部の手で、そのスパイの自宅には盗聴マイクが仕掛けられていた。KGB職員がパルメ暗殺を事前に知っていたことは、彼とその妻の会話を録音したテープにより知ることができる。そのテープは直ちに、最初の段階でSAPOに盗聴装置を提供した米国CIAへ渡された。
パルメ暗殺の隠蔽工作の肝心な部分は、言いがかりであると知りながらラルーシュに罪をなるりつけようとしたことにある。政治的な理由で大物を殺害する場合は常に、殺害の計画と同時に、隠蔽工作をも計画しておかなければならない。
隠蔽工作の担当者は、誰が実際に殺害を実行したか、その詳細を必ずしも知っているわけではないが、暗殺者と隠蔽工作の担当者を採用するのは、ともに全体を仕切る同一人物である。スウォールとADL、それにソ連のKGB。これがスウェーデンの国家最高首脳で社会主義者インターナショナルの指導者、オロフ・パルメ暗殺の隠蔽の鍵を握っている。この点は、文字になって公にされているし、疑問の余地のない事実である。
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パルメ殺害の動機
だが、依然はっきりしないのは、パルメ殺害の動機である。
時間の経過とともに、さらにはイラン・コントラ事件の鍵の解明が進むにつれて、一九八四年十一月のインディラ・ガンジー、インド首相の暗殺事件以来起こった重要な政治家の暗殺の動機が判明してきた。一方このことから、米国内外で勃発した数多くの他のテロ事件においてADLが果たした役割につき多くの事柄が明らかになってきた。
オロフ・パルメは殺された当時、社会主義者インターナショナル委員会、つまりパルメ委員会の議長だった。この委員会は、第三世界の紛争の調停をしたり、内戦や地域紛争、民族戦争や混乱によって破壊された地域の非武装化を進めたりすることをその目的としていた。一九八五年の終わり頃には、パルメは六年も続いていたイラン・イラク戦争の終結に向けて努力していた。
殺害される何ヵ月か前、パルメはスウェーデンの武器商人、カール・エリッヒ・シュミットの事務所の手入れをスウェーデンの警察当局に命じた。それは交戦国への武器販売を禁じた国際協定に違反し、イランのホメイニ陣営へ武器を提供した容疑によるものだった。シュミットの家宅捜査により入手した書類を調査するうちに、パルメはそのスウェーデン人がイスラエルのモサドおよびレーガン・ブッシュ政権内のプロジェクト・デモクラシーの組織と緊密な関係を結びながら仕事をしていたことを知った。さらに、東ドイツの悪名高い秘密警察シュタージも、シュミットによるスウェーデン製爆薬のイランへの密輸に加担していたことがわかった。その一方で東ドイツは当時、ソ連製の武器をニカラグアのコントラに大量に送り込むのにも協力していた。
ペルシャ湾や中米で東西が表向きには対立しながら、地域戦争を醸成するために裏ではなれ合いの関係にあるという皮肉な事実を、パルメは暴露しようとしていた。だが、彼は逆に暗殺されてしまった。パルメの口封じは、後にイラン・コントラ事件で明るみに出ることにはなる秘密を隠蔽するために、最初の段階で用いられた過激な手の一つだった。彼の口を封じることは、アメリカの政府高官、ソ連のKGB、そしてその仲間である東ドイツのシュタージのいずれにとっても願ってもない事柄だった。その時点では、ADLもイラン・コントラ工作の中に完全に組み込まれていた。ユダヤ人によるコントラ援助を進めるために、ADLはサンディニスタ政権が「反ユダヤ」制作を取っているなどというばかばかしい宣伝工作を行っていた。またオリバー・ノースのグループ支援をユダヤ人社会にどう働きかけるかという問題につき、ホワイト・ハウスで説明するといったことまでを行った。
パルメ暗殺に関する悪質な宣伝工作を進める上で、スウォールやADL幹部が果たした役割は、同じADLがイラン・コントラのために行った手口と完全に軸を一にしている。
アーウィン・スウォールはルイジアナ州ニューオーリンズで行ったインタビューの中で、シュミット事件が最初に発覚したとき彼はスウェーデンにおり、リンドン・ラルーシュに対し手を打つ件につきスウェーデンの親シオニスト社会主義者たちとすでに話合いに入っていて、パルメ暗殺から何時間もたたないうちに、彼自らが隠蔽工作に乗り出したことを明らかにしている。
オロフ・パルメの場合も、おそらくイッサム・サルタウィの場合でも、スウォールとADLの役割は、暗殺後のプロパガンダ活動に限られていた。それは虚偽の証拠のねつ造によって本当の暗殺者を逃亡させ、真の動機を隠蔽しようとするものだった。
その他の場合には、米国の内外を問わず、ADLは直接テロそのものに関係していた。ADLは特に、犯罪組織と悪質な情報組織、それに名うてのテロ組織の接点の役目を果たしてきた。
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自作自演のカネ集め
ADLがテロリストによる暗殺計画に関与していたことが公にされた最初のかつ悪質この上ない事件は、一九六八年に起こったこもである。それはスウォールがADLで汚いトリックを受け持つ実情調査部長に就任して一年後のことだった。そしてこの事件がきっかけとなり、
ADLは南北戦争後密かに手を結んでいたKKKと再び深い関係を持つことになった。
一九六八年六月三十日、ミシシッピー州メリディアンのKKKのメンバー二人が、地元のADL職員メイヤー・ダヴィドソンの自宅に爆弾を仕掛けようとしたところを、警察の待ち伏せに会い、その一人、地元の学校教師キャシー・アイスワースは射殺された。彼女の相棒、トーマス・A・テランツ三世は、警察とFBI捜査官によって七〇回以上撃たれたものの、奇跡的に生き延びた。その後の地元警察による捜査の内容は、ロサンゼルス・タイムズによって事細かく伝えられたが、それによると爆弾を仕掛ける計画も待ち伏せも、すべてはADLによってお膳立てされていたものであることがわかった。
ADLは、FBIと地元警察の情報関係者の少なくとも一人と連携プレーをしていた。事件を演出するために、ADLはそのおとり要員となった地元のKKKの指導者二人に少なくとも六万九千ドルの現金を手渡していた。その二人のうちの一人は、ADLに買収されたとき、三人の人権運動家を殺害したかどですでに有罪になっている人物だった。
アルトン・ウェイン・ロバーツは、一九六四年にミシシッピー州フィラデルフィアで、グッドマン、チェイニー、シュウェーナーの人権活動家三名の暗殺に加わったかどで、他の六人のKKKメンバーともども有罪の判決を受けていた。ダヴィドソン爆殺が企てられたとき、ロバーツは上訴の結果を待つべく保釈金を積んで釈放されていた。彼は終身刑を求刑されていた。
アルトン・ウェイン・ロバーツと彼の兄弟レイモンド・ロバーツには、人種問題が原因で当時起こったと思われるテロ事件のうち、少なくとも一〇件以上について主犯としての容疑がかかっている。このうち二件については、標的がユダヤ人だった。一九六七年九月十八日、ミシシッピー州ジャクソンのシナゴーグが爆破され、同年十一月二十一日には、同じジャクソン市の地元のラビの家が爆破された。そしてアインズウォースとタランツがメイヤー・ダヴィドソン宅を襲撃する一ヵ月前の一九六八年五月二十七日には、ミシシッピー州メリディアンのシナゴーグが爆弾によって大被害を受けた。
これら一連の爆破にADLが資金を出していたという証拠は公にはされていないが、一九六八年六月の第一週までに、ロバーツ兄弟がADLから現金を受け取り、KKKメンバーから二人を送ってメイヤー・ダヴィドソンの家を爆破するよう指令を受けていたことは、警察の調書でも新聞の報道でもはっきりしている。計画ではKKKのメンバー二人が地元のADLの指導者の家を爆破しようとしているところを警察とFBIが逮捕するということになっていた。そしてその後、この事件を大々的に報道し、人種差別の高まりや反ユダヤ主義を大きく取り上げることにより、地元のユダヤ人社会や南部全体のリベラル派の人たちからのADLへの献金を募るというものだった。そうすれば同情した人々から多額のカネが入ってくるという寸法だった。これはまさしく教科書通りの取り込み詐欺の手口で、ADLお得意のやり口だった。
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目的のためには手段を選ばず
FBIにとっても、起こった事件を都合よく報道されるのは決して悪い話ではない。またロバーツ兄弟にしても、カネが懐に入るし、刑務所入りを逃れるのに地元や連邦当局の協力を得られるのだからこれは悪い話ではない。
警察の調書によると、ADLの中でこの件を指揮したのは、アドレフ・ボトニック、別名サム・ボトニックだった。彼はADLのルイジアナ支部ニューオーリンズ地区の責任者だった。この支部はミシシッピーにおけるADLの活動も管轄していた。
ボトニックは、ニューオーリンズの元FBI特殊捜査官故ガイ・バニスターとは長年の友人関係にあった。バニスターはまた、海軍情報部にも関係しており、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の陰謀に加わった中心人物の一人だったとの疑いもかけられている。ケネディ暗殺の中心人物とされた二人、犯人とされたリー・ハーヴィー・オズワルドと彼が心を許した友人のデイヴィッド・フェクーは、大統領暗殺のちょうどニ、三ヵ月前からニューオーリンズにあるバニスターの事務所にしばしば出入りしていたことが目撃されている。ケネディ暗殺の真相を究明するニューオーリンズ大陪審に出頭する前日にバニスターが死亡するまで、ボトニックはかれの事務所に絶えず顔を見せていたようである。
一九六八年の初め、サム・ボトニックはミシシッピー州メリディアンを訪ねた。その目的は地元のFBI特別捜査官フランク・ワッツおよびメリディアン警察の刑事ルーク・スカーボローと密かに会合を行うことにあった。その会合の席上、ボトニックはロバーツ兄弟にADLの資金六万九千ドルを渡すという名も知れぬ「仲介人」に対し、一万ドルを支払うことに合意したと言われる。ロバーツ兄弟は情報提供者となり、かつADLやFBI、それに地元警察のための工作員となって、KKKと警察の間に起こる銃撃戦の演出に手を貸すことになった。
ADL、FBI、地元刑事、二人のKKKテロリストの間の合意内容は、有名な捜査担当記者のジャック・ネルソンによる一九七〇年二月十三日付『ロサンゼルス・タイムズ』紙の一面記事の中で詳細が明らかにされている。ネルソンの記事は、メリディアン警察のスカーボロー刑事が記した一九六八年六月十日付報告書を裏付けとしている。
その警察の書類の一部は次のようになっている。
「私は、仲介人に会って、工作の準備が整ったことを告げた。彼はカネについて尋ねたので、われわれはすでにある人物[スカーボローは他のところでこの人物はボトニックだと述べている]に会ったところ、この人物はカネの方は大丈夫だと言っていたと彼に教えてやった。彼は、それからウェイン[アルトン・ウェイン・ロバーツのこと]を訪ね、われわれが事を始める準備が整ったことを告げた。ウェインは店へ行ってレイモンド[ロバーツのこと]にそのことを言いに行くと仲介人に語った。レイモンドは、次の仕事をメリディアンで実行するには三日前後かかるとわれわれに告げた」
「次の仕事が始まったら、われわれは三ヵ所の異なる場所に張り込まなければならないと彼[レイモンド]は語った。また一つの本物があるとするといつも、それに代わるものが二つ存在するものだとも言った」
『ロサンゼルス・タイムズ』のネルソンの記事によると、その翌日サム・ボトニックは、ニューオーリンズからメリディアンに運ばれる最初の分二万五千ドルを二十ドル紙幣で用意した。その現金はFBIの要員に渡され、その日の遅くにその要員はロバーツ兄弟に会った。
六月二十日、ロバーツ兄弟はFBIとADL側に返事を送り、ダヴィドソン宅に爆弾を仕掛けさせるためKKKの中から二名、ジョー・ダニー・ホーキンスとトーマス・テランツ三世を選んだことを伝えた。攻撃予定日は六月三十日。
六月二十九日の夜、アルトン・ウェイン・ロバーツは二人のKKKメンバーに最後の爆破命令を伝えた。最後の瞬間になって、キャシー・アイスワースがホーキンスの代わりに任命された。ホーキンスは計画から降りた。
六月三十日に日付が変わって間もなく、テランツとアイスワースはダヴィドソンの家まで車を走らせた。アイスワースが車の運転席で待っている間、ピストルで武装したテランツが家の方に爆弾を運んだ。その瞬間、十二人のメリディアンの警察官と少なくとも十人のFBI捜査官がKKKのメンバー二人に向かって銃撃を開始した。最初に銃を撃ったのが警官であったのかどうかは今日に至るまで議論があるが、テロリスト志願者の二人がまんまと罠にはまり、警官とFBIの待ち伏せによって文字通り抹殺されたというのは事実である。
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KKKとも組むADL
自らの指導者の一人に対するテロを演出するのにADLがどういう役割を果たしたか、その詳細を『ロサンゼルス・タイムズ』が明らかにしたことでADL内にはかなりの混乱が生じたものの、爆破・待ち伏せ作戦そのものは万事計画通りに成功した。マスコミが人々を震え上がらせるような話を書き立てた結果、南部全体でADLの資金集めに弾みがついた。
アルトン・ウェイン・ロバーツは、ミシシッピー州フィラデルフィアにおける民権活動家三人の殺害の件につき、驚くほど短い禁固刑に処せられるだけで済んだ。彼は七年の禁固刑の判決を受けたが、三年で釈放された。彼とその兄弟のレイモンド・ロバーツは、FBIの目撃者連邦保護措置を受けられることになり、多額の給与を与えられている。複数の情報源によると、この二人はその後二十年間はADLの実情調査部のために働くおとり要員として活動し続けたという。
ADLがミシシッピー州メリディアンをにおいて人種差別主義者の殺し屋二人を雇ったのは、決して特異なことでも異例のことでもない。例えば一九八〇年代半ばには、ADLの南東地域民権部長チャールズ・ウィッテンシュタインは、アトランティック警察署が行っていた秘密工作計画をそっくり自分たちが乗取ってしまうことを提案した。表向き、地元警察が深刻な予算削減に悩んでいるのを見かねてという理由で、ADLはその計画に要する費用のすべてを負担すると申し出た。
ロバーツ兄弟に見られるように、ADLはKKK子飼いのメンバーを雇うというだけにとどまらず、入獄しなければならないという恐怖心や経済的な困窮という事情をうまく利用したりすることがある。また、恐喝して要員を引張ってくるという昔ながらの手口を使うこともある。
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人種差別反対はただの表看板
他から人を捜してくるというやり方のほか、ADLは自ら訓練した工作員を使うこともしばしばある。彼らの多くはユダヤ人で、KKKやそれに類する組織の中に密かにおとり要員として潜入している。
ジェームズ・ローゼンバーグ(別名ジミー・ミッチェルおよびジミー・アンダーソン)は、そうしたADL工作員の一人である。彼は長年にわたってKKKやクリスチャン防衛同盟(CDL)といった白人の人種差別団体の幹部だった。目撃者の証言によると、一九七〇年にローゼンバーグは、ニュージャージー州トレントンのKKKのメンバーを説得して、全米有色人種地位向上協会(NAACP)の地元本部を縛はさせるところまで話を詰めたことがあった。もし爆破が実行されていたら、ニュージャージー州の州都は、人種暴動の場を化していたことだろう。
ニューヨーク州知事、州兵、それにイスラエル政府の間の特別のはからいで、ローゼンバーグは十二名のニューヨーク出身者と共に、イスラエル国防軍の軍事訓練を六ヶ月間受けた。ローゼンバーグに関して詳しい何人かの捜査官によると、レーガン政権時代に、ローゼンバーグは、イスラエルのモサドが雇った傭兵の一人として、グアテマラやエルサルバドルに何度か送り込まれた。
ある時、ローゼンバーグとADLの差し金で極右組織に潜入していたもう一人の男が、二人でミッド・タウンのアパートの屋上から自動拳銃で下を通る歩行者を狙っていたところを警察に逮捕され、世間を騒がせたことがあった。
ADLの介入により、その事件の真相は隠蔽され、ローゼンバーグとその共犯者は、ともに罪に問われることはなく事が済んだ。
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悪魔からの知恵か
ADLから密かに送り込まれた別のおとりでローゼンバーグやスウォールと長年関係のある人物が、同様の事件を起こしたかどでニューヨークで裁判を待っている。その人物の名はモルデカイ・レヴィ。一九八九年八月十日、彼はニューヨーク市内のグリニッチ・ヴィレッジで実際に通りの群衆に向けて銃を発射、たまたまそこにいた人の足に弾が命中した。ニューヨーク市警テロ対策班の手で付近一帯には非常線が張られた。何年もの間レヴィと一緒に活動してきたFBI捜査官が、最終的にそのユダヤ人秘密工作員に対し武器を捨て警察に投降するように説得した。レヴィは殺人未遂を含む一連の重罪を犯したかどで起訴された。
その十年前、レヴィはこれとは違った形のテロ襲撃を試みて悪名を馳せたことがあった。一九七九年二月十六日、彼は独立ホールでKKKとアメリカ・ナチ党の集会を開く許可をもらうために、ジェームズ・ガットマンなる偽名を使ってペンシルバニア州フィラデルフィアの米国公園管理局事務所に申請を行った。独立ホールは合衆国の独立宣言が調印された国定記念物である。
集会の許可申請書によると、ガットマンは「白色人種による白人の大同団結を誇示し、世界の黒人やユダヤ人どもは腰抜けだということを誇示するための白人パワーの集会」を演出するつもりだった。
集会にしようされる道具や装置一式を記載する申請書の別の欄に、彼は「鉤十字章、旗、ナチの制服、KKKの小道具一式、...十字架、『ヒトラーは正義なり
− コミュニストのユダヤ人をガス室に送れ』と書いた鉤十字のプラカード」と書き入れた。申請書の至るところに「ガットマン」は自分のことをフランク・コリンズ率いるネオナチ・グループでシカゴに本部を置くアメリカ国民社会党の『コーディネーターのトップ』だと書いた。フィラデルフィアでこの集会が開かれる数年前、自分自身がユダヤ人の両親のもとで生まれたコリンズは、イリノイ州スコッキーというシカゴ郊外のユダヤ人が大勢住む地区ですっかり評判となったナチの行進を演出した。当時、その行進はADLかFBI、あるいはその双方が後援者になってやらせているものだとそれを調べた人たちの多くは考えた。
フィラデルフィアで、計画中の独立ホールでの集会への参加をKKKのフィラデルフィア支部やニュージャージー支部に呼びかけたときには、レヴィは「ジェームズ・フランク」なる名前を使った。当時、彼の仲間のADL工作員ジェームズ・ローゼンバーグはその近くのニュージャージー州トレントンで活躍しており、彼はガットマンの集会に参加するよう地元の白人グループを誘った。
レヴィが米国公園管理局から集会許可を得て二十四時間もたたないうちに、ナチ・KKK阻止連合なる特別委員会が急きょフィラデルフィア地域に結成された。このグループは、暴力をもって反対デモを行うというものだった。この連合の旗振り役は誰あろう、モルデカイ・レヴィ自身だった。
彼は本名を使ってテロ集団であるユダヤ防衛連盟(JDL)のフィラデルフィア本部から指揮を行い、この地域の左翼や戦闘的ユダヤ組織にことごとく接触した。
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ユダヤ組織の公然たるテロ
この連合の打ち合わせの一つに出席した『フィラデルフィア・ジャーナル』紙の記者、ビル・テイラーによると、グループはまちがいなく流血沙汰を引き起こす準備をしていたという。
「ヤームルカや皮のジャンパーを着たいかつい顔つきの若者のグループが、静かにかつ熱心に銃について議論していた。三五七口径では大きすぎまいか、三八口径は役に立つだろうか、と」と彼は書いている。
一九七九年三月十六日に発表された同じ記事の中で、JDLニューヨーク支部の保安担当の責任者の発言が引用されている。
「われわれはニューヨーク から千人から二千人連れて行く。...われわれの側にはなぜあの連中(ナチ)が一人残らず札付きかという六百万の理由がある」
KKK支持者と反KKKの間であわや再び流血事件の勃発かと思われたが、「ナチ」の集会の直前に地元の新聞記者がガットマンの正体を知るに及んで、衝突は回避された。
フィラデルフィアの新聞は「ナチ集会、仕掛人の正体はユダヤ人」と大見出しで書き立て、「ナチ集会許可、背後でJDLが仕組んだか?」と問いかけた。
マスコミの伝えるところでは、米国公園管理局は集会許可を取り消したという。ADLにとっては惜しかったとはいえ、この団体は懲りることなく、人種対立を煽動する同様の企てを他の機会に何度でも試みようとした。
ADLの手先のモルデカイ・レヴィや、JDLのもっと強硬なテロリストたちは、穏健なパレスチナ系米国人や、イスラエルやソ連が戦時中のナチ戦犯と非難している東欧出身の米国人を対象にした全面テロ攻勢を米国内で仕掛けようとした。
一九八五年秋と言えば、PLO幹部のイッサム・サルタウィの暗殺がアーウィン・スウォールによって目撃されてから何ヵ月もたたない頃だが、その年の秋には血なまぐさいテロの嵐が吹き、その一つの事件では、爆風によって二人が死亡、数人が負傷した。その事件はFBIのウィリアム・ウェブスター長官がいうところの「ユダヤ地下組織」の仕業によるものだった。
一連のテロ事件では、モルデカイ・レヴィが中心的な支援の役回りを果たしていた。
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ユダヤ防衛連盟(JDL)のテロ続発
一九八五年八月十五日、ニュージャージー州パターソンのツチェリム・スーブゾコフの自宅が爆破された。彼はロシアのサーカシア地方からアメリカに移民した人物で、中東では米国情報部のために働いていた。この事件は朝の四時に自分の車が燃えているとの隣人からの電話で起こされた彼が、玄関のドアを開けた瞬間に爆発するように仕組まれたなかなか凝ったものだった。スーブゾコフは足を吹き飛ばされた。それから三週間後に近くの病院で息を引き取った。
スーブゾコフはADLと近い関係にある『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者に、対戦中はナチだったとして非難されていた。この記者、ハワード・ブラムが非難の根拠としたのは、長年ADLの協力者であったエリザベス・ホルツマン議員が最初に手を入れ、その後ソ連がねつ造したものであることが判明した文書だった。
スーブゾコフはブラムと『ニューヨーク・タイムズ』紙を名誉毀損で訴えた。この辺のところは一冊の本になって大勢の人々に読まれている。彼が勝訴し、示談で決着したときから、彼に対する攻撃や言いがかりがエスカレートした。これらはユダヤの地下組織からのものだった。
爆弾テロが実行されるちょうど二、三日前、モルデカイ・レヴィがニュージャージー州パサイク近くのシナゴーグで話をして、スーブゾコフを危険な「ナチ」と言って攻撃した。レヴィは今は新設のユダヤ武闘組織、ユダヤ防衛機構(JDO)の代表だと自らを称しているが、スーブゾコフが爆弾で吹き飛ばされた後にレヴィは声明を発表して、それを快挙と「賞賛した」。
スーブゾコフへの爆弾襲撃が行われた翌日の一九八五年八月十六日、マサチューセッツ州ボストンの警察官が、アラブ系アメリカ人反差別委員会(AADC)のボストン事務所の外に置かれた同様の仕掛けパイプ爆弾を処理しようとして重傷を負った。爆弾が破裂した後、JDLを代表するという人物から事件は自分が起こしたとする電話があった。ツチェリム・スーブゾコフが息を引き取った八月七日、ニューヨーク、ロング・アイランドにあるエルマーズ・スプロギスの玄関に同じ種類の爆弾が置かれていた。スーブゾコフ同様、スプロギスも戦犯としてJDLの攻撃の対象になっていた。爆発によってスプロギスが負傷することはなかったが、彼の車が燃えているのを知らせるために彼の家の呼鈴を鳴らした何の関係もない通りがかりの人が重傷を負った。再度、JDLは警察とマスコミに犯行声明の電話をかけてきた。そしてこの時もやはり、犯行の何週間か前にADLのおとり要員モルデカイ・レヴィがニューヨーク、オールド・ウェストベリーのシナゴーグで記者会見をして、スプロギスに対し「ユダヤの正義」を思い知らせてやると約束していた。
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