第七章 ブナイ・ブリスの秘密部門ADL
ブナイ・ブリスのアメリ力再侵攻
アブラハム・リンカーン大統領が暗殺され南北戦争が終わってすぐ、契約の子孫の結社ブナイ・ブリスは、その拠って立とうとした南部連合が崩壊してはいたものの、アメリカで再び影響力を持ち始めた。
ブナイ・ブリスと手を結んだ「ユダヤ人南部連合主義者」の一人、ジュダー・P・べンジャミンが、このブナイ・ブリス台頭の過程で、大きくはないにしても一つの役割を演じることになった。
べンジャミンはカリブ海、カナダ経由でアメリカを脱出、一八六五年八月三十日にイギリスへ到着した。その時彼はすでに、一八六五年四月十四日のリンカーン大統領暗殺の嫌疑で南部連合大統領ジェファーソン・デービスとともに起訴されていた。
ジョン・ウィルクス・ブースによるリンカーン殺害のちょうど十日後、連邦政府の司法長官スタントンは、この暗殺計画は「カナダで計画され、リッチモンドで承認された」ものだったことを公にした。バージニア州リッチモンドは南部連合の首都であった。またイギリスの植民地であったカナダは、連邦脱退を唱える一派のスパイやテロリスト活動の本拠地であった。
何人かの証人が連邦捜査官に対して語ったところによると、一八六五年四月六日と九日に南部連合の筆頭スパイ、ジェイコブ・トンプソンのモントリオールの事務所で開かれたジョン・スラットとの会合に彼らも出席していた。報告書によればスラットは、南部連合大統領ジェファーソン・デービスと国務長官ジュダー・P・べンジャミンの署名入りのリンカーン殺害命令書を持参したという。
ジェファーソン・デービスは逃亡前に逮捕された。そこでロンドンへ無事脱出したべンジャミンが、南部連合の陰謀工作を担当するグループの中で最も重要な人物として活躍することになった。彼はまたイギリス法曹界の中でも重きをなすに至った。
リンカーン暗殺から八ヵ月もたたないうちに無事イギリスに潜入したべンジャミンは、スコティッシュ・ライトの騎士団長であるアルバート・パイクと謀って、ゴールデン・サークル騎士団フリーメーソンをKKKの見えざる帝国という新しい名の下に復活させようとした。南北戦争後、この見えざる帝国をつくる計画に参加した者の中には、バーナード・バルークの曾祖父がいた。
ジュグー・P・べンジャミンは、南部全土にわたるKKKの見えざる帝国の活動を支援するため、ロンドンから密かにアメリカ向けに送金を行っていた。KKKは二十世紀初めに、ブナイ・ブリスのADLから同じようなやり方で密かに資金供給を受けて、再ぴ頭を擡げてくることになる。だが、それ以前にKKKが意図したのは鉄道建設や農工業基盤整備を中心とした南北戦争後の南部復興計画を阻止することだった。そうすることで、敗北を喫した南部諸州を合衆国に取り込むことを狙ったわけである。
連邦解体工作は続く
一方、北部ではブナイ・ブリスは戦争による損失の一部を取り戻そうとしていた。その一つの手段としてブナイ・ブリスは、その創設当時からの支援者であったロスチャイルド家の代理人、オーガスト・べルモントの政治力を利用した。べルモントは一八七○年代中頃まで民主党党首を務めた。その影響力を行使して、彼はブナイ・ブリスのスパイを政界へ送り込んだ。
べルモントはニューヨークに本拠を置いてはいたものの、南部連合の陰謀をすすめる上で、このことは何の邪魔にもならなかった彼はニューオリンズの民主党のボスで、ジューダー・P・ベンジャミンの政治的後ろ楯だったジョン・スリデルの姪と結婚していた。ブキャナン大統領時代、スリデルは全ての政治的任命権を委ねられており、後にメキシコ大使になった。南北戦争が勃発した時、スリデルは南部連合の外交団の中心的人物となり、ルイ・ナポレオン王朝との特別交渉担当者としてパリへ赴いた。彼ともう一人の南部連合の隠密外交官がフランスに赴く途上、公海上のイギリス船内で北部連邦の水兵によって逮捕された時、べルモントはリンカーン大統領に手紙を書いて自分も含めた分離主義者高官の釈放を要求した。べルモントは彼ら二人を不法逮捕したことがきっかけで、イギリスが南部連合側について参戦してくる恐れがあると説いた。
事実を振り返って見ると、まず一八五二年、スリデルは義理の甥であるオーガスト・べルモントを、統領指名大会のニューヨーク州代議員にして民主党に引き入れた。指名大会では、彼らはジェームズ・ブキャナン指名の後押しをした。
民主党はべルモントの下で、連邦解体をその使命とするイギリスの後方撹乱部隊としての役割を果たすようになった。イギリスとのこうした関係は、南北戦争が終わっても存続した。
べルモントは、アメリカ青年運動やブナイ・ブリスの人間を工作員として、政府部内、政界、金融界の機密にかかわる部署に配置し、連邦解体の工作をさらに進めようとした。
ブナイ・ブリスが公的費用を醵出
ブナイ・ブリスの工作員の中でまず復権したのは、ユーリセス・グラント将軍の第十一号命令により逮捕されたサイモン・ウルフだった。
一八七○年、ウルフとブナイ・ブリスは、連邦政府に巧みに圧力をかけルーマニアに初めて合衆国領事館を開設させた。ルーマニアではユダヤ人社会に対する血なまぐさいポグロム(虐殺)が行われていた。
ブナイ・ブリスの前会長べンジャミン・F・ぺイクソットは、時の大統領グラントから初代ルーマニア駐在アメリカ領事に任命された。この領事職の手当に充てる政府財源がなかったため、ブナイ・ブリスがぺイクソットの外交活動のための費用を負担した。これは合衆国政府とブナイ・ブリスとの極めて異常な連携だったが、その後両者の間で行われた多くの共同活動の先例となった。そしてそのほとんどは国家の基本的利益に反するものであった。
迫害されているルーマニアのユダヤ人のために手を施す必要がさし迫るまで、ブナイ・ブリスはもっぱら自分たちの利益のための救済活動を行っていた節がある。ルーマニァに遣わされた外交関係者に関するブナイ・ブリスの公式の報告書によると、ぺイクソットやウルフ、その他の者たちはルーマニァ中にシオンの会(シオン・ソサエティ)なる組織をつくった。このシオンの会は、フリーメーソンの秘密結社ブナイ・ブリスを原型としたものであり、結局のところ、新しい支部として正式にブナイ・ブリスに組み込まれてしまった。アメリカへの移住の際、ブナイ・ブリスの団員だった者に優遇措置がとられるようになった背景には、こうした秘密結社間のつながりが存在したのである。
ユダヤ移民の選抜
十九世紀末近くになって、ブナイ・ブリスは東欧や南欧から大量にやって来た移民の中から人材を確保することに力を入れるようになった。ブナイ・ブリスが適用した基本的な採用基準に従えば、その団員になれるのはほとんどが金持ちかそれとも野心があるかのどちらかで、さらに堕落しており将来大物になり得るユダヤ人ということになってしまった。
ブナイ・ブリスに加盟して団員になれば、グループ生命保険に入る資格が与えられた。ユダヤ人互助会など他の団体が安い保険料率を導入して会員数を増やそうとしても、裕福なユダヤ人や野心的で出世を願う者が余計に団員になりたがるように、プナイ・プリスは醵出金の額をことさら高目に設定した。
ブナイ・ブリスは一八九○年代に、人材確保と移民受け入れ事業をバロン・ド・ヒルシュ基金と密接に協力して行った。これが、その後長期にわたって様々な意味を持ってくる。ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基金は、ロシア難民待遇改善米国委員会を通して特定のユダヤ人移民家族を選び、ニューヨークやその他のアメリカ東海岸の都市部にあるユダヤ人で一杯のゲットー.から、米国内のその他の地域やカナダなどへ移住させた。ブロンフマン一族がカナダ西部に定住するようになったのも、米国委員会の受け入れ作業の結果だった。この一族は、その後、ハドソン・べィ・カンパニーのような長年にわたってスコティッシュ・ライトの隠れ蓑となってきた会社が後ろ楯となっている組織犯罪に急速に足を突っ込むことになった。
一九○○年には、ブナイ・ブリスはバロン・ド・ヒルシュ基金を事実上併合していた。ブナイ・ブリスの幹部だったヤコブ。シフ(著名なニューヨークの投資銀行家)とオスカー・シュトラウス(アメリカの元トルコ大使)は、基金の理事も兼ねていた。
百万人以上のユダヤ人が住んでいたガリチア、べッサラビア、およびルーマニアの東欧地域が飢餓に襲われ、新たなポグロムが始まった。その結果大量のユダヤ人が難を逃れてアメリカに脱州した。
この時点ではブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基余は、すでに難民救済事業を完全に取り仕切るまでになっていた。というのは秘密支部を全国に持つブナイ・ブリスがユダヤ機関の中で唯一アメリカとカナダ全土に地方支部を有する団体であったため、この地方支部が北米におけるユダヤ人移住者の受け人れ割り当て数を決めることができたからである。ブナイ・ブリスは、南北戦争中に犯した恥ずべき行為が主たる原因となって二十年間にわたって伸び悩んでいたが、この移民受け入れ作業によって再び団員数を拡大することができるようになった。
節目となったセオドア・ルーズベルト
一九○一年までに一万人のユダヤ人移民が、ニューヨークのローアー・イーストのゲットーからはるか彼方のコロラド州クリップル・クリークやニューメキシコ州シルバー・シティといったところまで、全米五百の町や市へと再定住させられた。
また、世紀の変わり目に起こったもう一つのアメリカの悲劇、すなわち一九○一年、ウィリァム・マッキンレー大統領が暗殺され、セオドア・ルーズベル卜が大統領となったのがきっかけとなって、ブナイ・ブリスは隆盛を極めるようになった。
マッキンレーからルーズべルトへの政権移行は、アメリカ史における最もドラマチックな転換、それも合衆国の敵にとって喜ぶべき転換であった。
マッキンレーはリンカーンに忠実なオハイオ出身の共和党員であった。彼は一八九六年の選挙と一九○○年の再選のキャンぺーンでは、アメリカ本来の政治・経済システムを取り戻す政策を訴えた。裕福なニューヨーク貴族出のルーズべルトは、その母方の祖父ジェームズ・ブロッチから極めて強い影響を受けていた。
このプロッチは、ロンドンに本拠を置く南部連合のヨーロッパにおける情報全体を取り仕切るリーダーであった。彼はジュダー・P・べンジャミンの親密な協力者で北部連邦の敵と考えられていたため、南北戦争後アメリカに戻ることは許されなかった。彼と同じく永久追放の目に会ったもう一人の南部連合支持者が、オーガスト・べルモントの叔父ジョン・スリデルであった。
こと陰謀にかけてはひとかどの人物だったセオドア・ルーズべルトは、海軍次官だった一八九八年、ヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員と共謀し、キューバの革命家たちに密かに資金援助をして米西戦争を勃発させようとした。このキューバの革命家たちはアメリカ艦船「メイン号」を沈めたとされている。
アメリカの歴史家の中には、元ニューヨーク市警察長官であり急進的な隣保運動の後援者でもあったルーズべルトが、マッキンレー暗殺に関与していた可能性があると指摘する者もいる。
なぜ自由国家にFBlが
一九○一年、ニューヨーク州バッファローで再選直後の大統領に致命的銃撃を加え殺害した人物は、へンリー・ストリート隣保館に住むロシア人アナーキストであった。
一九○○年の共和党指名大会ではマッキンレー自身が再選で指名されることは初めからはっきりしていたが、副大統領候補を誰にするかで紛糾した。激しいやりとりの後、相手を不憫に思ったマッキンレーは、自分の大敵であるルーズべルト知事を副大統領候補とすることに同意した。この妥協がマッキンレー自身の上に、そしてアメリカ合衆国の上に不運を招く結果になった。
セオドア・ルーズべルトが大統領であった八年間に、合衆国が拠って立つ立憲制度の土台を破壊することを目的として数多くの組織が設立された。その一つが連邦捜査局(FBI)で、これは当時の議員たちが「専制警察国家機関」だとして激しく非難したものであった。FBIは議会の夏季休会中に、セオドア・ルーズべルトが署名した行政命令により設立されたのであった。
そのFBIが公式に行った最初の活動は、FBI設置に反対する合衆国議会議員の事務所にFBIの工作員を送り込み、その議員を罪に陥れる罠を仕掛けさせて、初めて設置された合衆国国家警察機関に反対する議会勢力を叩き潰すことだった。
その他にセオドア・ルーズべルト時代に誕生した機関としてADLを挙げることができる。ADLが、ボルシェビキの絡む組織犯罪やアメリカの利益を損ねることを狙った外国の諜報組織と手を結ぼうとする一方で、FBIとも緊密な関係を持とうとしたのは決して単なる偶然ではない。それは今後予想される激しい査察や様々な場合に起こり得る刑事訴訟からADLを守るために、FBIとの間に特別な関係をつくっておこうとするものだった。
ブナイ・ブリスから生まれたADL
ADL自らが作成した公式のADL史の中で、ADLがプナイ・ブリスの一機関としてつくられた事実を、わざと大したことでないかのように記述している点には注意する必要がある。ADLの報告書によると、ADLはイリノイ州南部出身の一人の若手ユダヤ人弁護士の手でつくられ、設立の五年後になって初めてブナイ・ブリスに「公認」されたことになっている。
実際、ADLがイリノイ州ブルーミントン出身の若手弁護士シグムンド・リビングストンによりつくられたのはまちがいない。一九○八年にADLが最初に組織された時、リピングストンはシカゴに住んでおり、また有力なブナイ・ブリス第六支部の支部長をしていた。
一九○八年、ニューヨークのラビ、ジョセフ・シルバーマンは、ブナイ・ブリスの執行部の会議の席上、「ユダヤ人の名誉を守るため」のブナイ・ブリスの新しい組織をつくることを提案した。ブナイ・プリスとADLの沿革史によると、この提案はシェークスピアの有名な戯曲『べニスの商人』の全国興業が実施されたことがきっかけで行われたという。
だがこの説明は本末転倒である。
反ユダヤ主義を拡めておいて組織拡大
ブナイ・ブリスとADLがこの劇を嫌っているというのは事実だが、それは別にシェークスピアが反ユダヤ主義者だからというわけではない。この劇が、シャイロックという人物の描き方を通じ、富と権力のためなら自らの同胞をさえ裏切るユダヤ人の中のホフユーデンなる人々の本性を見抜き彼らをこっぴどくやっつける内容になっていることが、ブナイ・プリスとADLには気に入らないのである。
シェークスピアがべニスをこの戯曲の舞台に選んだのは偶然ではない。というのは当時べニスは寡頭政治勢力の中心地であり、それ以前から「総督」になり代わって最も非情な秘密犯罪を行わせるためにホフユーデンを使うという歴史的背景があったからである。
ドイツの偉大な劇作家でアメリカ革命の支持者フリードリッヒ・シラーやアメリカの作家で秘密情報員であったジェームズ・フェニモア・クーパーのように、べネチアの「総督」制と共和主義への憎悪の念を痛烈に告白した作家も他にいた。この「総督」制は、スコティッシュ・ライトやブナイ・ブリスといった組織を通して西欧や北米に拡がっていった。今日に至るまでルツアットやレカナッティといった古くからべネチアに住むホフユーデン一族が中心となり、世界中においてADLとその上部組織であるブナイ・ブリスを支えてきている。
二十世紀の変わり目に話を戻し、「ユダヤ防衛機関」をつくった本当の理由について考えてみよう。もしアメリカでユダヤ人の名が冒涜されてきたというなら、その冒涜者の筆頭はブナイ・ブリスの指導者たち自身であった。ユダヤ人が非難されるたびに「反ユダヤ主義」と叫ぶような組織をつくることで、ADLの考案者たちはユダヤ人に向けられた非難の内容を覆い隠し、正当な非難と正真正銘の反ユダヤ主義との区別を暖昧なものにしてしまおうとした。そうすることでブナイ・ブリスとADLは、皮肉にもアメリカ中に反ユダヤ主義を拡めるのに大いなる働きをする結果になってしまった。だが、これこそ彼らが当初から意図していたことだった。
セオドア・ルーズべルト時代において、ブナイ・ブリスは正当な非難を浴びても仕方のないようなことを数多く実行していた。ユダヤ人社会の内部からさえしばしば非難されたほどであった、彼らにとって「ユダヤ人の名を守る」ための組織づくりが急務となったのは、こうした汚い工作をやっていたからに他ならない。
ボルシェビキ革命ヘの序曲
ではブナイ・ブリスはどのようなことにかかわったのだろうか。
第一に、ブナイ・ブリスは、バロン・ド・ヒルシュ基金やその他の秘密結社と共に、ロシアからのユダヤ人移民の中から選りすぐられた者を選別して人材として採用したことで、ロシア帝政を転覆する陰謀の主役を演じることになった。つまり、ブナイ・ブリスは事実上ボルシェビキ革命を積極的に支援した。
一九○三年四月十九日、べッサラビア(ソ連のルーマニア国境地方、大部分がモルダビア共和国に属する)でキシニョフの大虐殺と呼ばれる惨事が起き、四十五人のユダヤ人が殺され数百人が負傷した。アメリカとヨーロッパ全域の多くのユダヤ機関が、生存する負傷者を支援するための資金集めをしようとしたのに対し、ブナイ・ブリスは財政的援助にはっきりと反対、その代わりセオドア・ルーズべルト大統領とともに、大虐殺に対する個人的責任はツアー(ロシア皇帝)にあるとする世界的キャンぺーンを行い、ロシアの体制の不安定化を図るためさらに揺さぶりを図ろうとした。
一九○三年六月十五日、ブナイ・ブリスのワシントン代表で元南部連合の顧問弁護士だったサイモン・ウルフは、結社の執行部とルーズべルト大統領、それに国務長官ジョン・へイとの間の会合を設定した。この会合で話し合われた内容はルーズべルト大統領自身の手で報道関係者に公表され、広くマスコミの関心を集めるところとなった。大統領はブナイ・ブリスが用意した嘆願書をツアーに個人的に伝えることに同意した。
その嘆願書はキシニョフの大虐殺に抗議したもので、再びこのような事件が起こらないようにするため、ロシア政府が殺害者たちをすみやかに処罰し、もっと思い切った政策をとることを要求したものであった。
一九○三年七月十四日、ルーズべルトは再びブナイ・ブリスの最高幹部であるサイモン・ウルフ、オスカー・W・シュトラウス、それにブナイ・ブリスの会長レオ・N・レビといった人たちとニューヨーク州オイスター・べイにあった彼の私邸サガモア・ヒルで会った。ブナイ・ブリスが嘆願書に数千人の署名(大部分は非ユダヤ人のもの)を集めた後、ルーズべルトがツアーにそれを提出することで彼らは合意した。
アーマンド・ハマーなる人物
このようなことは、他国の内政問題に対し非礼にも外交的干渉行為を加えるものであった。というのは大虐殺から数ヵ月たっても、ロシア政府が直接事件に関与したという証拠は何も出てこなかったからである。ツアーは嘆願書の受取を拒否したが、そのことを再び世界のマスコミが一斉に叩いた。
ブナイ・ブリスが帝政の弱体化を図っていたことが公けになった結果、一九○五年ロシア革命とボルシェビキ運動が起こった後ほどなくして、まもなくそれに対する巻き返しの動きが起こった。一九一七年にボルシェビキが権力を奪うと、ユダヤ人とボルシェビキはつながっていたと指摘する声が大きくなった。 アメリカ国務省の一九二○年代初期の公式文書に「ユダヤ・ボルシェビキ」の中心人物として記録されている重要人物の一人はアーマンド・ハマーである。アメリカ共産党の創始者の息子ハマーはモスクワに数年間滞在し、V・I・レーニンを含むボルシェビキの最高幹部と個人的に親密な交流があった。彼は新しくできた共産主義独裁政権にアメリカが大規模な経済援助を行うべきことを説いて回った。ハマーはソ連滞在中に米国情報部がソビエトの大物スパイとみなしていたロシア人女性と結婚した。アーマンド・ハマーはADLと親密な関係にあり、今日に至るまでソビエトと「特別な関係」を築くことを最も熱心に唱える人物の一人である。
表はブナイ・ブリス、裏はADL
二十世紀初めの混乱と変化の中で、ブナイ・ブリス首脳は結社が長年にわたって保持してきた秘密主義を放棄し、もっと開かれた公的な組織になるべきだと考えた。公式のブナイ・ブリス史にはそういった記述はないが、この結社の責任者は、それ以降の秘密工作はADLのみが担当するとのはっきりとした決定を行っている。
このように、ブナイ・ブリスの「ユダヤ防衛」部門は、成立当初から秘密結社の中の秘密組織と考えられていた。それまではブナイ・ブリス全体で行っていた地下工作をこの部門だけで行うことになったわけである。ブナイ・プリスはアメリカに住む広範囲なユダヤ人層からその後も引き続きメンバーを採用することによって、当初は誰の目にも明らかだったフリーメーソンの組織であるというその歴史を世間から隠していった。そしてそれ以後は、ADLが受け持つようになった秘密工作を世間の目から隠すために、社会的義務を立派に果たす組織としての体裁を整えるようになった。
しかしプナイ・ブリスの全米執行委員会とADLの全米委員会が全く同じ顔ぶれからなっているのを見れぱ、結社内部のエリートとADL幹部がつながっていることがわかる。
こうした変更は二十世紀に入った一九一○年代の十年間に実施された。一九一○年のブナイ・ブリスの全国大会では、結社に「秘密主義の廃止」を求める議案が圧倒的多数で否決された。しかしその十年後、一九二○年の大会では、一○年の大会のときと同じ代議員が多数出席したにもかかわらず秘密主義は正式に廃止された。同時にプナイ・ブリスは結社の「ユダヤ防衛」計画の活動を拡大するため、十九万二千ドルを特別ADL基金として別途醵出することを決定した。
結社に新しい秘密部門、すなわちADLをつくるという考えは、単にボルシェビキとの絡みからでてきたというだけのことではなかった。決定的要因とは言わないまでもADL創設のもう一つの重要な要素として、ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒシュル基金の支援を受けていた東欧からのユダヤ人移民が牛耳る組織犯罪のシンジケートの出現という事実があった。
イタリア・マフィアとの連携
ADLの設立に関する公式の報告書は、ADLが末端に至るまでブナイ・ブリスによっ統制されているということには余り触れていないが、「ユダヤ・ギャング」の存在に伴って起こったスキャンダルについてはことさら詳しく述べている。
早くも一九○一年には、ニューヨーク市警察は強大化する地下犯罪組織の活動、それにその地下組織と国際アナーキスト運動とのつながりを追っていた。
ニューヨーク市警察長官セオドア・ビンガムと彼の配下の首席情報担当官ジョセフ・ぺトロシーノ警部補は、そのことを知ってか知らずか、スコティッシュ・ライトが当時進めていた陰謀を追っていた。その陰謀とは、アメリカ合衆国、それにヨーロッパ大陸の国の中でアメリカが行ったような共和制国家をつくる実験を繰り返す可能性があるすべての国を弱体化することであった。
共産党第一インターナショナル結成当時、スコティッシュ・ライトはヨーロッパ青年運動の中心的人物を多勢引き抜き、共産主義者やアナーキストに仕立てた。こうしたことを行ったフリーメーソン活動家の中に、イタリアのジョゼッぺ・マッツィーニがいた。
マッツィーニのイタリア青年運動は、一八四八年以後のヨーロッパ中に吹き荒れた革命の嵐が鎮まった後におけるヨーロッパ青年運動の組織全体の立て直しのために中心となって働いた。マッツィーニの勢力は第一インターナショナルの結成大会では過半数を占めたが、歴史の教科書の中では彼の働きはイギリスで訓練を受けたドイツ系ユダャ人共産主義者、カール・マルクスの陰に隠れてしまっている。
マッツィーニのイ夕リア青年運動は、拡大する国際組織犯罪シンジケートの中心でもあった。この犯罪シンジケートが、後にマフィアとして知られることになった。イ夕リア人のアメリカへの大量移民が始まるとともに、マッツィーニ率いるイタリア青年運動組織は新世界に足掛かりを設けた。当然のことながら、スコティッシュ・ライトが後ろ楯となっているマッツィーニの運動が、すでにできあがっていたプナイ・ブリスのネットワークや、大西洋を越えてアメリカに移植されたヨーロッパ青年運動の他のグループと共通の目的を持っといったことがしばしば起こった。十九世紀の終わりには、ユダヤ人やイタリア人、アイルランド人、それにその他のヨーロッパ移民を巻き込んだ一つの強力な犯罪シンジケートが、ニューヨークやニューオーリンズといった都市にできていた。
ニューヨーク市警察長官ビンガムが叩き潰そうとしたのも、まさしくこのような組織であった。
ユダヤ防衛のためにあらず
早くも一九○一年の初めには、ビンガム長官の右腕のジョセフ・ぺトロシーノ警部補は、ニューヨークのローアー・イーストサイドにあるヘンリー・ストリート隣保館を本拠とするアナーキスト一味がウイリアム・マッキンレー大統領の暗殺を企んでいると、財務省秘密検察局に事前に警告していた。へンリー・ストリートの一味と関係があったアナーキストはエマ・ゴールドマンであった。一八九○年代初め、ニューヨーク市警察長官在職当時、セオドア・ルーズべルトはフェビアン社会主義者がつくったへンリー・ストリート隣保館の強力な支持者であった。財務省秘密検察局はぺトロシーノの警告を無視した。その数ヵ月後マッキンレーは亡くなり、そしてセオドア・ルーズべルトが大統領となったのである。
ピンガムとぺトロシーノは、ニューヨークにおけるアナーキスト犯罪者による地下活動の徹底調査を進めて、それなりの成功を得た。悪名高いギャング、アル・カポネの叔父、ジョニー・トリオは、ニューヨーク市警察から絶えずえず圧カをかけられ、その結果ニューヨークからシカゴへと追いやられてしまった。一九○八年初め、ビンガムは一冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークに台頭してきたユダヤやイタリア、それにアイルランドの犯罪シンジケートについて詳しく報告するとともに、それらシンジケートと国際アナーキストとの関係についてもその実態を明らかにした。この報告書は今では入手できないので、シンジケートの一部としてブナイ・ブリスの名をビンガムがはっきりとした形で挙げていたかどうかは調べようがない。しかしADLの沿革を書いた
公式の文書によれば、ADLがブナイ・ブリスの単なる広報委員会としての活動を行っていた当時、まず最初の攻撃目標に選んだのがビンガム長官だった。「ユダヤ人を中傷した」という理由で、彼は激しい非難にさらされた。
一九○九年初めにぺトロシーノ警部補はイタリア警察との連携捜査のためにイタリアへ渡り、ニューヨークに拠点をつくり上げた主要なイタリア・ギャングに関する一連の書類を引き渡した。三月にシシリーを訪れていたぺトロシーノは、シシリー・マフィアのボス、ドン・ヴィトー・カスチオ・フェロにより暗殺された。
一方アメリカでは、ビンガムを反ユダヤ主義者呼ばわりするブナイ・ブリスの率いる運動が繰り広げられ、彼はニューヨーク市警察長官の地位を追われた。その結果イタリア人およぴユダヤ人双方のギャングの活動は隆盛を極めることとなった。
犯罪と戦ったビンガムが追放され、ぺトロシーノが暗殺された事実は、ADLがどういう存在であるか、その本質的なものを示唆している。つまりADLは結成当初から組織犯罪やそれを操るスコティッシュ・ライトの「防衛機関」として位置づけられていたのであり、「ユダヤ人」の防衛組織だとは決して考えられていなかったのである。
組織犯罪を支えるADL
ADLが結成当初からスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの上層部によって支配されていたことは、その設立者であり初代専務理事(一九二二−四五年)を務めたシグムンド・リビングストンの経歴を見るとわかる。リビングストンは中西部の有力なブナイ・ブリス第六支部の支部長だったとき、すでにシカゴの弁護士として名をなしていた。彼の大手顧客の中にはウイリアム・ムーアが支配するシカゴ・アルトン鉄道があった。一八九○年代以後、監督教会員であったムーア家はJ・P・モルガン銀行グループとの共同事業により財をなした。ムーア家は、モルガンの財政的支援を受けてナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)やU・S・スティール・コーポレーションを設立した。二世代のうちにムーア一族はニューヨークのバンカーズ・トラスト・カンパニーを支配するようになり、インターナショナル・ビジネス・マシーン・コーポレーション(IBM)の重役に名を連ねるようにもなった。
ムーア家の弁護士シグムンド・リビングストンは、一九○○年代初めの三十年間、ADLの活動の支配権を握ったというだけではなかった。ナビスコやムーア一族が所有するその他の企業が中心になって、常にADLを財政的に支えていたのである。一九八八年に至るまで、ムーアの子孫の一人で、ニューヨークの聖ヨハネ監督教会のポール・ムーア主教は、ADLと非常に密接な関係を持っていた。彼はエルサレムの聖ヨハネ騎士団のようなフリーメーソン機関の活動の場所として、自分の教会を提供していた。
ウォール街やロンドンのシティの監督教会派フリーメーソン上層部の密かな支援を受け、またADLの強力な保護も受けながら、二十世紀の当初二十年間に全国的なユダヤ犯罪シンジケートができ上がってきた。
一九一九年に禁酒法ができてからというのもの、彼らの事業はまさに全盛を極めるに至った。
イギリスの支援と支配
アル・カポネ、チャールズ(ラッキー)・ルチアーノ、ジョニー・トリオといった別名で呼ばれた有名なイタリア人の他に、禁酒法時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングによっても支配されていた。その中で最も有名なのはメイヤー・ランスキーであった。ランスキー自身は、ロススタインという有名なニューヨークの繊維衣料商人の息子の支援を受けていた。アーノルド・ロススタインはニューヨークに登場した最初の犯罪ボスであった。彼は一九二六年に暗殺されたが、その時点でメイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・ボスの地位に就いた。ランスキーと彼の少年時代からの友人チャールズ・ルチアーノは殺人会社、すなわち銃を使う名うての殺し屋集団をつくり、それによって北米のすべての都市に、密売酒と麻薬の流通ルートを支配する全国的犯罪連合をつくっていった。
ユダヤ人が不正なやり方でカネを手にするのを取り締まろうとする動きがちょっとでもあれば、ADLはすぐさま「反ユダヤ主義」という叫び声をあげた。それによって、シンジケートは禁酒法時代の十年間に根を深く張り巡らし、何十億ドルという不正資金を蓄えるに至った。メイヤー・ランスキーのほかにも、大物ユダヤ・ギャングがアメりカとカナダに現れた。こうしたギャングの中でも特筆すべき存在がカナダにおけるサム・ブロンフマン率いるブロンフマン・ギャング、クリーブランド、デトロイト、シカゴの五大湖周辺に根を張ったノーマン・パープルやモリス・ダリッツ、それにマックス・フィッシャー率いるパープル・ギャング、ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配したジョセフ・レインフェルド・シンジケートといった集団である。ランスキーと親しいべンジャミン(バッグス)・シーゲルは、禁酒法時代にウィスキーの密売と麻薬で稼いだ資金を基にネバダにギャンブル王国を築いた。組織犯罪全盛期に儲けた資金のその他の部分は、ハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。
禁酒法時代にあっても、ユダヤ・シンジケートは、イギリスに本拠を置くフリーメイソン一味との間に秘密の特別な関係があったおかげで繁栄した。カナダやカリブ海にある引き渡し地点までスコッチ・ウィスキーを自由に配送することができる英国酒造評議会を支配していたのは、ほかならぬウインストン・チャーチルその人であった。そして引き渡した地点からはランスキー・シンジケートの所有する船が、極上の酒をアメリカへ運び込んだ。当時の警察の記録は、アメリカの東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。
そして一九二○年、アーノルド・ロススタインとメイヤー・ランスキーは、彼らの代理人ジェイコブ(ヤシャ)・カッツェンバーグを上海へ送り、中国産アへンの北米における販売権を手に入れるべく交渉させた。カッツェンバーグが交渉した相手のイギリスのアへン王の中には、香港上海銀行とジャーディン・マゼソン・トレーディング・カンパニーのケズウィック卿がいた。ケズウィックは、スコティッシュ・ライトの団員だった。このスコティッシシュライトは、グランド・マスターのパーマストン卿のもと、中国における麻薬取引の権益をイギリスの手に入れるべく、十九世紀後半にアへン戦争として知られる戦争を仕掛けた団体であった。
財務長官モーゲンソー
ADLとブナイ・ブリスが支援するユダヤ・シンジケートは、禁酒法のおかげで強大な金融・政治権力の基盤を築くことができた。しかし、ユダヤ・シンジケートの名だたる人物のほとんどは、北米全土の律儀な警察官の目には、やくざ、麻薬密売人、人殺し、強盗ということになっていた。
一九三三年、ADLはこうした人間だとしか見られていなかったユダヤ・ギャングたちの復権を図るべく動き始めた。ドイツでアドルフ・ヒトラーが政権の座につき、アメリカ国内でも親ヒトラー的な動きが台頭したことから、ADLとこれを支援するスコティッシュ・ライトは、こうしたギャングに復権の機会を与えようと行動し始めたのである。
プナイ・ブリスは一九三三年の全国大会でADL支援を最優先扱いとすることとし、ADLの後援のもとで反ナチ秘密情報収集活動に従事する部隊を創設するために二十万ドルを緊急醵出することを決定した。
この動きはすでにでき上がっていたイギリスの情報工作計画とうまい具合いにかみ合うことになった。イギリスの諜報活動の拠点は、ニューヨークにある何社かのイギリス系投資会社の中に置かれていた。最初に拠点が設けられたのは、第一次世界大戦終結時のことでウィリアム・ワイズマン卿がこれに当たった。イギリスの諜報活動は形式上はFBIおよぴ米国財務省と連携して行われていた。
その米国財務省の秘密検察局というのは、大統領と政府高官を護衛するために設立されたもので、アメリカで最も古い民間情報取締機関であった。
フランクリン・デラノ・ルーズべルト大統領が任命した財務長官は、都合の良いことにブナイ・ブリス幹部であるヘンリー。モーゲンソー二世だった。彼の父ヘンリー・モーゲンソーはボルシェビキ革命当時のトルコ大使であり、その当時の結杜の秘密活動に最も活躍した人物である。
英国情報部の連絡役だったワイズマンが交替したとき、ウィリアム・ステファンソン卿は増大するナチの危険に対して英米の情報機関の協力体制を大幅に拡大しようとした。またモーゲンソーは、ADLを秘密スパイ活動のために全面的に投入した。うまい具合いに、ADLの情報部長モーリス・チェク(別名フランク・ビアス)が、アメリカ議会のマコーミック・ディックスタイン委員会の首席調査官だった。さらにADLのトップクラスの諜報員であった弁護士ジョージ・ミンッアーは、一九二六年から一九三一年にかけて、ニューヨーク南部地区の合衆国検察局の犯罪調査部長を務めていた。
罰せられることなき犯罪者たち
ミンツァーはその立場を活かし、メイヤー・ランスキーの殺人会社(マーダー・インク社)のネットワークを刑事訴追からかばった。公けにされた当時の歴史史料によると、一九二九年にはメイヤー・ランスキーは米国財務省への情報提供者として密かに名前が挙げられており、それゆえ訴追を受けることがないようになっていたという。それが事実かどうかは立証されてはいないが、いずれにしても彼が一九二九年以後一日として刑務所で過ごしたことがなかったのは事実である。
ミンツァーの前任者でニューヨークの合衆国検察局の刑事部門を統轄していたのは、ランスキーのもう一人の擁護者、モーゼス・ボラコフであった。ボラコフは自分がユダヤ・シンジケートとつながっていることを隠そうとはしなかった。合衆国検察局を去って後、彼はランスキーとチャールズ・ルチア−ノ両人の個人弁護士となった。
一九三三年、ミンツァーはADLのために働く秘密情報班を自分の法律事務所内に設けた。本当のものも単に推測に基づくものも含めて、米国における親ナチ・ネットワークに関するファイルが、そこに保管された。こうしたファイルは海軍情報局(ONI)やFBI、国務省、それにウィリァム・ステファンソン卿率いる英国特殊工作部(SOE)にも提供された。
第二次世界大戦終結の時点までに、破壊活動に関与したとしてADLのファイルに記載された米国人の名前は、充分な証拠のない者も含め三万二千人以上に及んだ。それら名指しされた人々の中には、進んでナチズムを支持した正真正銘の反逆者もいたが、その多くはただADLおよびユダヤ・シンジケートと対立したというだけの人々であった。
米ソ情報部への浸透
一九四○年七月、イギリスはすでにヨーロッパでの戦争に巻き込まれており、ルーズべルトはイギリスを守ることを決定していた。そういう中でアメリカとイギリスの情報部は、いわゆる「暗黒街工作(オぺレーション・アンダーワールド)」を始めた。この「暗黒街工作」の目的は、シシリー上陸から開始する将来のヨーロッパ攻略に備え、シシリー・マフィアの中でこれはという人物を連合国側に取り込むことであった。
ADLが後押しをするムーア一族所有のナビスコ社の執行役員であるチャールズ・ラドクリフ・ハフェンデン海軍少佐は、海軍情報局B_3調査部長に任命され、ニューヨークにおける工作を命じられていた。ハフェンデンはすぐに、後にADL最高幹部となるニューヨークの地方検事補マーリ・ガーフェインの支持を取付けた。ガーフェインは、モーゼス・ボラコフとメイヤー・ランスキーを通じて、殺人会社のチャールズ・ルチァーノにシシリー侵攻計画への援助を約束させた。結果として、ランスキー、ルチアーノの両人は海軍情報局の情報提供員として働くことになった。
ランスキーが、海軍情報局からシシリー・マフィアと接触し、侵攻計画に対する彼らの支援を確かなものにするよう依頼されたとき、皮肉にもランスキーは、一九○九年にニューヨーク市警察のぺトロシ−ノ警部補を殺害したマフィアのボス、ドン・ヴィト−・カスチオ・フェロの息子の所に直接赴いた。
反ナチ運動は正義であったということや、組織犯罪に関係する人物をナチ占領下のヨーロッパへの侵攻準備のために使うのは戦争のためには仕方のなかったことだ、ということについては異論はない。ただ、防衛のために設立されたはずのADLや組織犯罪が、本来犯罪と戦うべきである連邦機関の承認と積極的援助を受け、隆盛を極めることができたというのは、何とも不幸な結末だった。
もう一つ戦争の結果として言えるのは、ADLのソ連情報部とのつながりが強まったことである。戦時かけて、ニューヨーク南部地区の合衆国検察局の犯罪調査部長を務めていた。
アメリカ全国ヘの勢力拡大
終戦時、ADLは過去二十年間でアメリカの奥深く侵入を果たした実績をより一層活用するため、大がかりな組織改革を行った。
ADL自らが口述によって作製した六巻からなる公式のADL史によると、一九四六年、べンジャミン・R・エプスタインをはじめとするADL職員が、ディック・ガッツスタット専務理事に組織拡大を図るという観点から組織の見直しを行うよう提案した。その当時、ADLの常勤職員の数は五十人にも満たなかった。エプスタイン、ルー・ノビンズ、マックス・クロロフ、ハロルド・サックス、アーノルド・フォルスターといった人が一つの研究を行っていたが、それは後にADL内で「審問」という名で知られるようになったものである。「審問」の直接の結果として、ADLは現在の部局からなる組織に再編され、再編された各部局は常勤専門職員を採用するようになり、その管理は当時すでに社会復帰していた多くのユダヤ・ギャングが支配する全米委員会という素人集団が行うことになった。コロラド州デンバーのADL理事会の会長メルビン・シュレジンジャー大佐の尽力により、ADLの地方事務所の数は一九五○年の一二ヵ所から五年間で三○ヵ所以上というように倍以上になった。
べンジャミン・エプスタイン自身は、一九四七年にADLの執行理事となり、一九七九年までその座にあったが、退任の後も新しく設立されたADL財団の副会長として半ばADL内にとどまっていた。彼は一九八三年に没した。
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